無期懲役の判決を受けた和田久太郎は、1928年2月20日、収監されていた秋田刑務所で自殺する。和田の身元引受人になっていた望月桂は、近藤憲二と共に遺骸を引き取りに行き、火葬する。
獄中からの和田の願いを聞き入れ、逮捕された同志や社会主義者の救援に奔走していた望月であったが、和田の死後活動の一線から身を引き、和田の死をいち早く知らせてくれた、読売新聞記者の宮崎光男の紹介で、読売新聞社に入社し「犀川凡太郎」として約三年間紙面に風刺漫画を描くなど、生活の立て直しをはかる。美術学校時代の同級生の岡本一平、藤田嗣治らと1938年に漫画雑誌『バクショー』を創刊するが、翌年、軍部の指令により配紙を止められ、廃刊に追い込まれる。