あらゆる享受=喜びは死である

知人が亡くなった。八年間の闘病を耐えて、今日、旅立ったのだという。仏教徒がお経を読むようにして、アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』の一節をタイプした。

 私たちは労働のみで、あるいはパンのみで。生きるのではない。生きることは、必要性、欠如、対象物を狙うことによって動かされる自発性(イニシアティブ)の連続ではない。生とは、徐々にそのたくわえを失う企てのなかで、繰り返し死を先送りする不安のなかで、必要と満足、食べることと再び空腹になること、飲むことと再び喉が渇くことを繰り返すことではない。生は享受=喜びである。私たちは、光、暖かさ、流れ、音の鳴り響き、天上の音楽、家庭と故郷の親密さ、異他的(エキゾチック)なものの計り知れなさのなかで、生きているのである。
 根源的なもののなかに官能的に包みこまれることは、人の目を輝かせ、手を暖め、姿勢を支え、声を能弁で生き生きしたものにし、顔を熱気に溢れたものにする。喜びに包みこまれることで、歓喜の中で解放されることを求める感謝に満ちた過剰なエネルギーが生みだされる。享受=喜びとは自由である。春の日の輝きと土の暖かさを享受することによって、私たちは、心配、願望、目的を忘れる。私たちは喪失と償いを忘れ、私たちをとらえているものから解放される。あらゆる享受=喜びは死である。それは、ハイデガー的な不安が承知しているような、受動性のなかへと移ることにより自己に巻き込まれ、自己のなかへと後退させられることとしての死でもない。根源的なものの、始まりも終わりもない、底知れぬ充溢のなかへと消えていくこととしての死なのである。

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 人が出かけていくのは、そこに行くように駆り立てられるからだ。人は、他者が、彼または彼女が、ひとりきりで死んでいくことのないように出かけていくのである。敏感さとやさしさと共に動かされる人の手の動きのすべてが、他者を感受する力によって、その人に向けられた命令を感知する。人は、他者のために、そして他者と共に、苦しまずにはいられない。他者が連れ去られてしまったときに感じる悲しみ、いかなる薬も慰めも効かなくなったときに感じる悲しみは、人は悲しまずにはいられないということを知っている悲しみなのである。