明治時代の松山には「朝敵」松山藩の無念が色濃く漂っていたのだと思う。その無念が正岡子規や秋山兄弟を生んだし、夏目漱石は明治の松山を題材に『坊ちゃん』を執筆した。柳瀬正夢(正六)は明治33年に松山で生まれた。
最近まで柳瀬正夢に特別な興味を持ったことはありませんでしたが、数年前から大正期の芸術運動に興味を持つ中、調べたいと思っていました。古本屋で見つけた展覧会の図録を数冊手に入れていましたが、絵を眺めるだけで解説はざっと目を通すだけでした。昨年亡くなったルポライターの井出孫六さんが1996年に出した『ねじ釘の如く 画家・柳瀬正夢の軌跡』という伝記があることを知り、昨年購入したものを今日やっと読むことが出来ました。柳瀬の「よもだ」ぶりは面白かったし、特高に拷問を受けていたことさえ知らなかったのです。読売新聞で望月桂と同僚の時期があったり、新居格たちと満蒙に視察に行ったり、魯迅が柳瀬の漫画を中国で広めていたり、いろいろなつながりを知って、大正時代の芸術運動の豊かさがさらに広がりました。
これまで柳瀬に興味を惹かれなかったのは何故だろうと考えると、MAVOと柳瀬がなぜか繋がらなかったり、左翼デザイナーだったり、そのスタイルがゆらぎ過ぎるからかもしれませんし、多分初めて見た「仮面」に何か恐ろしいものを感じて、なんとなく見ないようにしてきたからかもしれません。
小さなエピソードですが、伝記の中でとても気になったことがあります。死別した小夜子(梅子)の墓が松山にあるというのです。東京で暮らす柳瀬が、どうしてその妻の骨を松山に埋葬したのかがよく分からない。次回、帰郷した時に探してみたいと思います。
柳瀬の書いた『ゲオルゲ・グロッス 無産階級の画家』の著作権が切れていましたので、久し振りにタイプしはじめました。マルセル・モース『贈与論』を読み終えたら、自由芸術大学の読書会で扱ってみようと考えています。