7月のIRAでのワークショップは、禁断の多色摺り木版画ということで、「創作版画運動」を改めて調べてみるとこれまた面白いです。
山本鼎が明治37年に雑誌「明星」で発表した『漁夫』が自画・自刻・自摺による「創作版画運動」の記念碑的作品ということなのですが、山本鼎はその後フランス留学し、その帰路に立ち寄ったモスクワで、児童想像美術展と農村工芸品展示所を観て、自由な美術教育と農民美術運動の必要性を感じます。鼎自身は制作に専念したいと、親や知人にやってもらえないかと持ちかけていましたが、「お前がやれと」いうことになり、一念発起、画業はおろそかに、実家のある長野上田で「農民美術練習所」を開講したり、「創作版画運動」、「自由画教育」などを始めました。
鼎の携わった運動はプロレタリア芸術運動とは一線をおいた、政治/政党的ではない、芸術による民衆革命を目指していますが、どちらの運動にも関わったり、行き来した画家や版画家もいます。また、大杉栄の肖像画「出獄の日の0氏」を描いた、上田出身のアナキスト画家、林倭衛の良き理解者であったり、山鹿泰治らとともにエスペラント運動を推進した竹内藤吉が「農民美術練習所」のスタッフとして、製作と教育を行っていたこともあるようです。
※自由画教育の一環として、サクラクレパスの「クレパス」の考案も行っています。鼎らの作った「日本版画協会」の木版画の重鎮たちがサクラ水彩絵の具を愛用していたのはそういう経緯からかもしれません。