バブルの終焉、湾岸戦争が勃発した時には愛媛の今治で暮らしていて、母方の祖母の出身地の(伊予)大島や能島を巡り、村上水軍について調べていたりもした。なぜそうしたかは忘れてしまったが、仕事以外は和服で過ごした。夏にはアパートのそばの蒼社川の河原で、手で捕まえられるほどのゲンジボタルが舞っていた。その年は豪雨で、川に架かる蒼社橋が流されてしまうほどだった。
湾岸戦争のニュースはテレビで見ていた。小学生時代に浅間山荘事件をテレビで見ていた時と同じ感覚だったのだと思う。浅間山荘の時は子どもだったので、その事件を実感として認識する事は出来なかっただろうし、子どもながらそれは自覚していた。湾岸戦争の映像を見ている自分はもう十分に大人だったのだが、しかしそこで戦争が行われ、街が破壊され、そして多くの人が死んでいることを実感として感じることが出来なかった。だから、戦争の絵を、空爆の絵を描いた。次の年には東京に戻ることになり、その油彩画は松山の実家に置いてきた。今はあるかどうかもわからない。
もうじき、集団的自衛権行使は容認されるだろう。だからこれからしばらくは、戦争の絵を、空襲の絵を描こうと思う。それは集団的自衛権の行使によって行われた攻撃/爆撃の結果、そしてこの国のいつか見た、未来の姿だと思うから。