民衆芸術運動(14)

1922年1月21日、運動の資金に充てようと売れる絵を描くために、伊豆へスケッチに出かけた久板卯之助が天城山中で凍死する。

さらば久板君!
望月桂

凍死なんていかにも相応しい、
真黒な大空に銀の星の天蓋の下
静かに更けて行く天城山頂の雪の上、
有つたけ燃やし尽くした体は、
仰向いて安らかに、永い眠りに付いた、
彼の死は確に芸術だ!革命家の死だ。

第三回黒耀展と同じく、第四回黒耀会展も「民衆芸術展」として、1922年6月に上野の日本美術クラブで開催される。当局により、二日目に、中止、解散命令を受ける。新聞記事などの資料も残されておらず、実質一日のみのこの展覧会の詳細は不明だが、第三回展の出品者に加え、翌年に前衛美術団体「マヴォ」を結成する村山知義、柳瀬正夢らも新たに参加している。この第四回展をもって、黒耀会の活動も終わりを迎えるが、村山、柳瀬らは「マヴォ」結成直後に展覧会を開き、機関紙も発行している。黒耀会の目指した革命芸術運動は民衆芸術運動から前衛芸術運動へと形を変え、若い彼らに引き継がれたのではないだろうか。