黒耀会の中心人物である望月桂は、1887年1月(1886年12月)長野県の明科町に生まれる。実家は旧庄屋で養蚕業を営む、当時としては裕福な家庭に育った。松本中学の卒業を目前にして、息子が医者になることを望む親に反対されていた美術を目指し、家出をして東京へ向かい、1906年(明治39年)東京美術学校洋画科に入学する。(この年に山本鼎が同校を卒業している。)
望月は美術を目指したものの、絵を売って生活しようとは考えなかった。その頃を回想した「独断独語」と題する文章が残されている。
私が美校へ入ったのは、一ぱしの画家になろうなどではなく、絵が好きだったので研究しようとしただけだ。在学中いろいろな問題にぶっ突かった。美とは何か、真実とは何か、生き甲斐とは、また美術の神聖さ、芸術と生活の一体化等に悩みは多かった。肉眼に訴える感覚表現と技術は一応取得した。
そして考えさせられた。表面美、内面美というか、肉眼に映り、心眼に触れると申すか、内部に潜むものを快。小細工などなしに純情感激そのままを叩きつける壮。それから止むに止まれぬものを現わせば、不必要なもので飾る要はない。
勿論芸術である以上、表現技法は大切だ。それに新旧はいらざる事、最適なものが佳、洋画、日本画にも固執する要はあるまい。流行は必ず廃る。流れに浮かぶ泡ぶくの如しだ。ただエゴ陶酔は気をつけるべきだ。常に衆と共に生きる世の中だから。
だが世の中へ出てみると、夢と現実は裏腹だった。近代文化は物質万能、肝心の精神生活は無視に等しく、万事は経済に支配され、人間はその奴隷たるため、道具たるための専門家たるを得なかったのであった。そうして各自自ずから争って自分を売り食いして居る。そして社会は、自己以外を理解できない不具者の寄せ集めであった。
美しい芸術即生活を目標とし、自然を愛し自由を尊重した、一青年は人生に失望したが、ここに一切の幸せは他に頼れない、自力創造以外にないと奮起した。人間個々は性格才能に相違は当然、各自は分に応じ、それぞれの筋を通し、万人理想の為めに行動を取るべきだ。芸術は万人享楽のために解放すべきものだ。
私は芸術の神聖を命を賭しても守る。生活のためにそれを売る事は芸術を冒涜すべきものだとし、制作以外の職を選び生活することにし、或いはテクニックだけを売る事にしたのだ。
そして政治と美術の関りについて一言。私の知る範囲では、凡そ政治は権力の下に、愚民をいい事にし、お為ごかしの巧妙な誤魔化し支配以外の何物でもない。更らに経済とつるんで人類を腐廃せしめ芸術をも歪曲退廃せしめる。これに対し芸術家たるもの何でそっぽを向いて居られよう。
硬骨露わに体当たりか、骨に肉と皮とで被いやんわり逆撫でして自覚を促すか、その手は幾らでもある、芸術は常に正義の味方であるべきだ。
そこで漫画が登場する。敵の攻撃から味方に勇気づけ、失った笑いを復活せしめる役割がある。これも説明ではなく、又下衆では拙い。美術の品位を保たねばならぬ。