1945年、日本軍敗戦。太平洋戦争中に勤めていた高島屋工業青年学校の寮生を引き連れ、郷里明科に疎開していた望月は、寮生を帰京させ、自らは明科にとどまる。実家で農業、畜産を行いながら農民組合、農協の設立に奔走する。
1955年には、松本の松南高校に請われ、美術教師に就任、以後十余年にわたり美術教育に尽力する。
1975年に信州新町美術館で初めての個展を開く。同年12月13日望月桂永眠。
長年社会運動に携わりながらも、権力闘争に与することなく、美術を通して自主自立、相互扶助を求め自由に生きた、日本で唯一のアナキスト画家は、89年の生涯を閉じた。