山本鼎は、明治一五(一八八二)年漢方医の山本一郎の長男として愛知県額田郡岡崎町(岡崎市)に生まれる。法令の改定により、西洋医学を学ばなければ医師の資格を取得できなくなったため、一郎は妻たけと幼子を残し、単身上京、森静雄(森鴎外の父)のもとで書生として西洋医学を学ぶ。鼎五歳の時に母とともに上京、浅草に暮らす。父一郎は鼎が小学校を卒業するころには森医院で代診を務めるようになっていたが、まだ医師の資格は得られておらず、鼎は卒業後木版工房の桜井暁雲(虎吉)に弟子入りし、住み込みで働く。写真製版の技術もすでに存在していたが、新聞、雑誌などで多用されていた、木口木版を一から学んだ。技術の上達も早く、今でも使われているキリンビールのラベルは鼎が制作したといわれている。七年間の奉公を終える頃には、父の一郎も医師の資格を得て、長野の神川村(上田市)で開業していた。写真製版、グラビア印刷技術の発達とともに、木口木版の利用も減る中、木版工房の独立ではなく、画家になることを目指した鼎は、実技試験のみで入学できる東京美術学校を受験するため、印刷工仲間で、官営印刷局に勤めていた石井満吉(柏亭)らの立ち上げた西洋美術研究会(紫潤会)に入り、報知新聞で木版挿絵を彫る傍ら、受験にそなえて勉強を始め、明治三五(一九〇二)年、東京美術学校西洋画科選科予科に入学する。