鼎が小学校に通っていた頃、森鴎外がドイツ留学中に親交を結んだ画家原田直次郎が、森医院を訪れた時に見かけた鼎の母たけをモデルに、代表作「騎龍観音」を描いている。明治二三(一八九〇)年に官展で唯一洋画家が出品できる、第三回内国勧業博覧会に出品され話題になった。母がモデルをした絵が反響を呼んだことは、医師の系譜である山本家(父一郎は養子)から画家を目指す者が出たことにも大きく影響したのだろう。
鴎外が講師をしたこともある東京美術学校に入学した鼎は、鴎外の後任の美術史家岩村透に世界や個人―個性の重要性を教えられる。明治以前の日本人には世界や個人という意識が希薄であった。長く続いた身分制や家父長制によって、思考の最小単位が家族であったところに、開国による世界の出現、資本主義の導入による労働者の発生、同時に立ち上がる「自由」の意識。そのような社会状況に美術や画家がどのように関わっていけばよいかを岩村に教えられた。のちに鼎が自由画教育を提唱する原点となっている。
「芸術は、確信である。個性に信頼して、初めて、確信が起る。自負心は、美術家にとっては、美徳である、生命である。この心強からねば、均一の圧迫はたちどころに異才を平凡化する(岩村透)」