山本鼎は東京美術学生時代に、石井家が借りていた借家の部屋を借りて同居したことがある。そこで出会った石井柏亭の妹みつに、鼎はいつからか恋心を抱くようになっていた。母のふじのに求婚の許しを乞うたが、あまりいい返事をもらえなかった。石井家には八人の子どもがいたが、父の日本画家石井鼎湖が明治三〇(一八八七)年に五〇歳で亡くなり、すでに嫁いでいた長女は別に、苦労して七人の子どもを育てた母のふじのは、生活が安定しない画家の嫁にはしたくなかったのだろう。夫は画家であったし、柏亭は画家として渡欧の準備を始め、弟の鶴三は東京美術学校を卒業したばかりであった。このとき鼎は二八歳で、その青春の時期も終わろうとしていた。あきらめきれない鼎は、柏亭が渡欧を計画していることもありその年のうちに、かつての師匠桜井虎吉を通して正式に結婚の申し出をした。しかし、この恋に協力的でない柏亭と喧嘩をしたりと、石井家との間にも気まずい空気が流れ、母ふじのは桜井を通して縁談をことわった。この失恋はよほどこたえたようで、半年間、旅や登山をして過ごしている。京都に寄ったときに、中学に通う甥の村山槐多の絵を見て、油彩道具一式を買い与えた。
この年、明治四三(一九一〇)年は大逆事件による幸徳秋水ら社会主義者の大量検挙、日韓併合などが行われ、日本は帝国主義国家へとのし上がっていく。