『東京パック』には風刺・風俗漫画を描き、『方寸』では自然主義・リアリズム的な版画を作り、『パンの会』では反自然主義・耽美的な詩人たちと交流・遊興していた山本鼎は、失恋の痛手もあり、その矛盾が重荷となって『方寸』への寄稿も減っていた。明治四四(一九一一)年「版画の創作、評論を発表せんとす、而して方法は月間専門雑誌の発行及び版画展覧会の開催等に拠らん」と宣言し、心機一転、東京版画倶楽部を立ち上げる。活動の資金稼ぎもあってか、ひともうけしようと、同年三月に竣工した帝国劇場の役者絵を坂本繁二郎と描き、版画集『草画舞台姿』を東京版画倶楽部から出版する。「第三集」まで出版するが、そのときは思うようには売れなかった。七月十日に発行した青木繁の追悼号を最後に『方寸』も廃刊となる。それらの欝積から抜け出すために渡欧して、美術を学びなおそうと、旅費を集めのためパトロンを探し始める。