山本鼎滞欧中の大正三(一九一四)年には第一次世界大戦が勃発している。ドイツ軍によるパリ空爆などもあり、山本鼎は数か月間ロンドンに避難していたこともあった。それでもパリに戻り、エコール・ド・ボザールに通いながら美術の勉強に励んでいたが、終わりの見えない戦争と、借金の催促による父からの苦情で、帰国を余儀なくされた。大正五(一九一六)年六月三十日、帰国の途につく。ロンドン、スカンジナビア、ロシア経由で帰国中、その後の人生を左右する芸術に出会っている。ロンドンから船で訪れたスカンジナビアでは、ノルウェーの美術館で初めて見たムンクに、美術の革新の可能性を見出している。リアリズムを主張してきた鼎だが、ムンクの絵に自然や人の風景の写実を超えた感覚の、精神のリアリズムを発見し、その表現技法を研究している。後の自由画教育でクレヨンを推奨したのも、ムンクのリトグラフからの影響があるのだろう。
……僕は此処にムンクの画を初めて見たのです。ムンクは、クロード・モネ等の創造した、印象主義が分裂をはじめて、次の時代が始まる——其新運動に、スカンジナビアから呼応して居る最も代表的な人です。生来の病身はその画に特色を露しています。筆の曲線的なリズムは、物のフォルムに就いて、煙のように、又波にゆらぐ海藻のように、画布の外にまで動きなびいて居ます。そのミュージカルな律動は、深くムンクの胸底につながって居るものです。又トーンも特殊です。痩せた少女が裸で腰掛て居て、影を背面に投げて居る、其影が何となく不思議なんです。男が水に沿うて歩いて居る、そして雲が下界にむかって吐息をついて居る、其雲が男の頭の悩ましさを暗示して居るらしい。人が影か、影か人か、雲が人だか雲だか分からないような調子をもって居ます。彩も特殊です。彼の用いているトワル(画布)は概ね油を吸ってしまう奴です。そして絵具はうすくテレバンティンに溶かされ、とんと水彩画の調子に、全体の基調を作ってしまうのです。或部分は布でこすって、麻の肌目に絵の具をすり込んであります。其処へあとから行った淡いコバルトなどが花粉のようについて居ます。花模様のある黒い女の着物なども、墨で描いて一度拭いて居ます。(これはウイスラーが常用しているテクニック)艶を有たない、そして深いヴァリューは、板襖に古びた土佐画を連想させます。藍、緑、墨、そして烏瓜の赤、は其常用色です。二階の室に彼の版画を四十枚見ました。木目の荒い板に、太い丸鑿で彫って、墨で刷ったもの、薄墨刷りの骨板に没骨的に、緑と熟柿色をおしたもの。幻のように少女の顔の現れたポアントセーシュ(ドライポイント)、或はローフォルト(エッチング)との混用、旺んにグラトワールを用いたリトグラフ。僕は彼の版画の中では此リトグラフの効果を一番好きました。クライヨンの性質は彼の神経に適応しているのです。此版画の室に、桟橋の上で両手で頬をおさえて立った男の油絵がありました。紺色の素描に血紅色の夕焼雲が燃えて居ます。二五号ばかりの小さな画ですが、あれは正にムンクの代表作でしょう。
「帰路の美術上の所見」