民衆芸術運動(33)

山本鼎がモスクワに着いた頃は、日露戦争の敗戦、続く第一次世界大戦の苦戦とツァーリ政府の失策による物不足とそれに伴う物価の高騰で、インテリゲンチャ、労働者、農民の不満は高まる一方だった。鼎は両親への手紙に物価の高さを嘆き「金持ちは買いためも出来るし、高い魚や鶏(鶏に禁制なし)も買えますが、貧乏人は困るでしょう。それで暴動が起らぬのは不思議です。」と書いている。ロシア革命が起こるのは、その数カ月後のことである。
帰国後は渡欧生活で得た技術と知識や経験に基づいて美術作家として生活を送ろうと、ロシアでも美術研究に余念のない鼎だったが、その将来設計を揺るがす芸術に出会う。

 北海を越え、スカンジナビアを縦断し、フィンランドを迂回して露都に入り、モスクワに着いたが、此都で、私は思いの外の道草を喰ってしまった。三日滞在するつもりが実に五ヶ月にのびてしまった。其間の見聞で、巴里では見られなかった。或いは気がつかなかったものが三つある。一つは農民音楽の試演、一つはクスタリヌイミュゼエ(即ち農民美術蒐集館)一つは児童創造展覧会(即ち私の所謂自由画展覧会)である。
 (中略)
 クスタリヌイミュゼエ、とは木工品陳列所の謂であるそうだ。つまりモスクワスカヤ県の農民美術販売所なのである。其処で販売して居る物は、私の覚えて居るだけでも、玩具文房具、小器具、風俗人形、紙細工、籠、織物、小家具、陶器等の多種目で、皆露西亜趣味のはっきりと現れたものであった。私は其処で、ミュゼエの美術上の支配者である何とやらコフという人と、片上伸君の引き合せで握手した。処が、前に述べたように、日本へかえって製作三昧な生活に駆け込ん考で居た私は、此人から別に委しい話を訊こうともせず、階下で素木人形の安いのをちっとばかり買い込んだだけでやがてモスクワをお暇してしまったのである。
 処が、此種子は西伯利亜横断の汽車の中で退屈に蒸されて芽を吹いた。そして日本の土に下されて、世の雨風に晒される事になり、私は、種子と土とに重い責任を感じる身となってしまった。