シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断し、大正五(一九一六)年十二月二八日に神戸港に着いた山本鼎は、信州大屋の実家で正月を迎える。招かれた青年団の歓迎会で、後に民衆芸術運動を一緒に行うことになる金井正と知り合う。金井家は養蚕農業の他に郵便局や銀行を経営するなど、地元の有力者であった。三男の正は文学を志していたが、敬愛する次兄が早世したため進学をあきらめ、次兄の未亡人と結婚して家督を継ぎ、父の経営する自宅にある郵便局に勤める。日露戦争最中の、明治三八(一九〇五)年に『平民新聞』の定期購読を始め、知人を集めて読書会を開くなど、社会主義・反戦思想にも傾倒していた。明治四〇(一九〇七)年には、同人誌『国分寺の鐘韻』を出版、翌年には地元神川小学校に寄託し、「神川読書会」を設立して、農村の文化向上を志した。この頃、友人から薦められ、西田幾多郎の哲学を知る。