この頃、山本鼎は積極的に美術・文芸誌に美術展評を書いていた。大正七(一九一八)年一〇月号の『中央美術』に寄稿した二科展評では、望月桂と平民美術協会に関わっていた久板卯之助の肖像「H氏の肖像」や「冬の海」で二科賞を受賞した同郷の林倭衛の作品評をしている。
「林倭衛君の画は暗鬱な重くるしい画の多いなかに際だって、軽快に見えます。物体はただ弱く表現されて居るが、どれも躊躇なく統一された画面は多くの人に好かれるでしょう。」
長野県小県郡上田町に生まれた林倭衛は、小学生の時に事業の失敗で失踪した父の代わりに、小学校卒業後に家族の生計を立てるため上京し、道路人夫として働きながら、画家を目指すと同時にサンジカリスト研究会、平民新聞に出入りしていた。大正六(一九一六)年の第三回二科展でバクーニンの肖像画「サンジカリスト」が初入選、第四回展で「小笠原風景」が樗牛賞を受賞、第五回展では「H氏の肖像」「冬の海」で二科賞を受賞し、新進作家として評価を得るが、第六回展に出品した、大杉栄の肖像画「出獄の日のO氏」が警視庁に撤回命令を受ける。これまで美術作品の撤回、没収といえば裸体画など風俗紊乱に関することが多かったのだが、社会運動に関連して当局の弾圧の手が美術にまで及んできたことを、美術界や新聞なども問題視して報道している。