大成功を収めた第一回日本版画協会展のひと月後、山本鼎が目をかけていた甥の村山槐多が、流行性感冒により二十二歳の若さで亡くなった。通夜には槐多や鼎の友人が集まり、石井柏亭の弟で彫刻家の石井鶴三がデスマスクをとった。鼎は『中央美術』四月号に槐多の追悼文を寄せている。
槐多の死を悲しむ間も無く、三月には美術雑誌『みずゑ』が版画特集を組むなど、鼎は時の人となる。前年の十二月十七日に神川小学校で『児童自由画の奨励』という講演を行い、児童自由画展に向けて準備を始めていた鼎たちは、三月十三日に印刷の上がってきた「児童自由画展趣意書」を昨年の講演の来場者や県内の小学校に送り、作品を募った。四月十五日には、集まった九千八百点の児童画から千八十五点を選び、神川小学校に展示した。四月二七、二八日の二日間、第一回児童自由画展覧会は開かれる。初日に行った講演には六百名もの観客がつめかけ、その盛況ぶりを信濃毎日新聞や読売新聞が特集記事にし、美術雑誌や教育誌にも記事が掲載され、「自由画教育」は運動として全国に広がっていく。