民衆芸術運動(4)

望月桂は東京美術学校卒業後に郷里長野県の野沢中学校に請われ、1910年5月に美術教師として赴任する。教師の仕事は一年間のみと決めていた。
赴任直後に大逆(幸徳)事件が起こる。望月の故郷である長野県明科の明科製材所で宮下太吉が爆裂弾を製造していたことが発覚し、幸徳秋水ら12名の社会主義・無政府主義者が死刑判決を受ける。爆裂弾を発見した駐在巡査は望月の父親とも親しかった。数年後の社会主義者、無政府主義者との交流に、この事件が、どの程度影響していたのだろうか。
野沢中学を辞職した望月は、明科の実家に戻り浪人生活を送るが、一年を待たずして東京に向かう。絵を売りものにせず美術を活かせる職業を探していた望月は、印刷工として、印刷会社に丁稚入りする。印刷の技術を習得した望月は、翌年に石版画工として独立、その年のうちに「大円社印刷所」を設立し婚約者のふくと結婚するが、翌年には会社が倒産する。その頃、世話になっていた「たぬき」という一膳飯屋の影響で、神田に氷水屋「へちま」を開業する。その後、簡易食堂として谷中に移転。印刷業も再開する。

hechima

腹がへつては どうにもならん
先づ食ひ給へ 飲みたまへ
腹がほんとに 出来たなら
そこでしつかり やりたまへ