金井正の地元、神川小学校で開催され、大成功を収めた児童自由画展は、各地の教育者の手によって、全国で開かれるようになる。各紙新聞社共同主催の「世界児童画展覧会」も開催され、『赤い鳥』をはじめとした児童雑誌でも児童画の応募連載が行われるようにもなった。山本鼎はその開催や講演会に協力して全国を飛び回っていた。
大正一〇(一九二一)年に行われた群馬県高崎公会堂での児童自由画展覧会と講演会の準備において問題が起きる。この展覧会を企画したのは、「高崎白衣大観音」の建立者として知られる、井上保三の長男、井上房一郎である。父に薦められ、大正七(一九一八)年、早稲田大学に入学した房一郎はその門をくぐることなく、東京美術学校の生徒だった白井壮太郎らと都会・文化生活を楽しんでいる。二年後早稲田を中退し、高崎に戻った後も、白井を通して購入した輸入レコードによるコンサートを高崎公会堂で開催したりしている。
その井上だが、大逆事件で無実の罪に問われ刑死した幸徳秋水が日本に紹介したクロポトキンの書物に対する当局の検閲が極めて厳しいことを知ってか知らずか、児童自由画展覧会と講演会の趣意書の中にクロポトキンの教育論の一節を引用していたのだ。発起人として名を連ねていた県の学務課長が趣意書を読み恐れをなして各県に出品自粛の文書を送った。前年九月の『改造』に伊藤野枝による「クロポトキンの教育論」が発表されているので、社会主義にも興味のあった井上は『改造』を読み、その教育論に感銘を受け趣意書に引用したのかも知れない。
山本鼎は『自由教育』四月号に「クロポトキンの祟り」と題して、その経緯を説明している。
二十日の早朝、僕は金井君を誘って、前橋へ出かけた。蓋し、此展覧会に就いて群馬県の学務課長から出品妨害の文書が各郡の視学に配られたという事が伝えられ、事実発起人等の熱心な努力も甲斐なく、郡部からの出品は、殆ど無いとも云える位であったので、僕は憤慨しちまって、学務課長に実情の質問をせねばならぬと、珍しく早起きしたのであった。学務課長はまだ寝て居たらしく随分長い間待たされた。――僕が来意を述べると、若い課長はこう弁疏した。
「あの事に就いては、東京の新聞に出たので驚いた――心配して高崎の方をしらべさしたら郡部の出品が殆ど無いという事なので心配した――実は最初高崎から二青年が見えて、自由画展覧会の企てを述べて自分に発起人となる事を望まれたので、自分も自由画展覧会の主意には賛成して発起人になったのであった。処が、各所へ配られた其の趣意書を見ると、主催者の一人が、クロポトキンの句を引用して居る。これを見て私は迷惑を感じた、なぜならば、御存じの事と思うが、凡そ若い教育者程過激思想に感染し易い者はないので、自分の地位としては、クロポトキンの句の記載されてあるような趣意書に発起人として名を列ねる事は出来ないのです――それ故「募集書中に気に入らない点があるから出品する場合には熟考する様に」という刷り物を郡視学に配布したわけであるが、決して自由画展覧会其のものを妨害したわけではありません」
まったくクロポトキンの句が祟ったのであった。それにしてもクロポトキンのようなむしろ人の良すぎる位な人の言葉が吾々の展覧会に障るのだからおかしい。