山本鼎と金井正は自由画運動を行いつつ、農民美術運動にも着手した。大正八(一九一九)年一一月一八日、練習生募集のため、山本、金井の連名で書かれた「日本農民美術建業の趣意書」を村内に配布し、翌日には農閑期の間練習所として使わせてもらう神川小学校に青年会、婦人会の幹部にまってもらい、ロシアから持ち帰った農民美術品をならべ、工芸品と農民芸術の違いなど、農民美術の展望も含め趣旨説明を行った。
「これはハア、大ていなもんではごわせんぞ、あねいな立派なものが一と冬やそこらで出来やすかいなあ」「とても百姓にはヘエ……絵心がない事には、つまり困難だわさ」「まつたく、籠を編むとはわけが違ひやす……百姓が美術品を作らうツウだからナイ」「さあ……うまく練習生がごわせうかなあ?」その時は、村人には鼎の考える農民芸術というもののイメージが伝わらなかったようだが、十二月五日の開業には男子五名、女子五名の練習生が集まり、村のドロの木を使った木彫や刺繍の練習が始まる。
大正デモクラシーの時代、青鞜もすでに発刊/終刊していた時期だが、農村で若い男女が肩を寄せ合い学び合う機会などなかった時代、そして民芸を超えた創造の喜び、その新鮮な試みは若者の心を動かし、二月には、男子七名、女子一六名と、参加者は増えていった。