民衆芸術運動(47)

若い男女が親しく受講しているのを見た村の人たちから、小学校で行うのは児童の教育上良くないとの批判があり、二回目の農民美術講習会は金井正の経営する養蚕業の蚕室で開かれた。部屋の広さが限られていたので、新規には受講生を募集しなかったが、二千三百四十六点もの農民美術を完成させ、終業後には昨年同様、神川小学校で展覧会を行い、日本橋三越で展示即売会を開催した。さらに大阪の三越でも展示即売を行い、売れ残ったのは十四点だけであった。『中央美術』は山本鼎の特集を組み、新聞記者でロシアの十月革命に遭遇し記事を書いたこともある大庭柯公は、寄稿した「民衆の芸術的才能」で、農民美術をプロレタリア芸術として捉えている。

開始以来僅か二年目、精確に言えば農閑の二百日目に出来上がった手際として、その出来栄えの見事なことに驚いたものである。勿論その模範はこれをロシアの農民美術に採ったものであるが、兎にも角にも初めて日本で生まれたプロレタリアの新芸術として、斯程な短時日の間に斯程な製作を生み出し得たことは、本来プロレタリア自身に芸術的素質が実在しておる為であって、その実在が些少な誘発に会って、斯くも本質を発揮した所以に他ならない。

鼎は政治的な社会運動には関わらなかったが、自由画教育、農民美術運動が社会主義者の言う民衆芸術につながっていることは十分意識していた。エッセイ「美術家の欠伸」の一説に記している。

美術が常に富裕者に奉仕して栄えた。という需要関係に認める場合にそれに論はないよ、が、しかし本来美術は単に己れを好む利己主義者で、決して労働階級に背をむけているのではなく、労働階級が美術に背をむけているんだよ。だからいつか彼らが美術を求めるようになれば、美術は彼らに順応するにきまっているのだ。美術には国境はないというが階級もないんだ。――さて、彼らの雰囲気からどんな美術が生まれるか、いわゆる貴族的な美術に対してどんな創意が示されるか?これはすこぶる興味ある問題なんだ。 (八年八月十八日信州長倉村にて)