1918年の夏に富山の主婦たちが米価の高騰を止めさせるため、魚津港に集まり実力行使で阻止したことをきっかけに、全国規模の民衆暴動が起こった。大杉栄は大阪でその暴動を目の当たりにする。大杉にとって、革命の可能性を肌で感じられるものだったに違いない。
米騒動の数ヶ月前、1918年5月に『労働青年』の当初の発行人であった渡辺政太郎が病死する。渡辺の自宅では、以前より労働問題の研究会が開かれ、望月桂も久板卯之助や大杉栄と共に参加していた。渡辺の死後、後に官憲のスパイになってしまう有吉三吉の自宅へ場所を変え、「北風会」と改名される。この会の中でも、米騒動についての会合「米騒動記念茶話会」が持たれている。労働者革命への機運が高まる中、1919年9月5日、望月は自宅で「革命芸術研究会」を開催する。久板卯之助、小生夢坊、林倭衛、添田唖蝉坊、長沢青衣、中里介山、宮崎安右衛門、宮地嘉六、丹潔、川口慶助といった社会運動の錚々たる若手や芸術家、印刷工労働者などが参加した。