「革命芸術研究会(茶話会)」は月一回の会合を開き、民衆芸術について懇談した。1919年12月5日の例会で、新たな発展に向かって、正式名称と会則を定め、『黒耀会』が誕生する。わずか一月後の1920年1月には、社会党の新年会で荒畑寒村の脚本『電工』『十二の棺』を上演する。舞台装飾含め、民衆芸術の処女作としての発表であった。
前年の7月には、大逆事件による冤罪で処刑された大石誠之助の甥の大石七分が『民衆の芸術』を出版。1919年には日本創作版画協会の山本鼎が、信州神川で「農民美術練習場」を開講するなど、社会運動と共に、民衆芸術運動も盛り上がりを見せていた。