芸術と政治をめぐる対話

自由芸術大学の読書会で11月1日(水)から、《ミヒャエル・エンデ/ヨーゼフ・ボイス『芸術と政治をめぐる対話』を読む》を行うことにした。FB上では評判が良い(リーチが多い)ようだが、だからといって参加者が増えるというわけでもないのは、SNSの「存在の耐えられない軽さ」なのだろう。絶版なのか、Amazonで検索すると19,157円という法外な値段をつけているところもあるが、3,000円前後で買えるようだ。岩波文庫にでも入れてほしい。

ライナー・ラップマンが書いた序文を紹介します。


はじめに

 この本の成立事情について、詳しくお話しよう。ヨーゼフ・ボイスとミヒャエル・エンデに対談してもらおうという考えが実現するまでに、二年かかった。一九八五年二月八日から十日にかけての週末は、待ち望まれた日であり、たしかに私たちの仕事の頂点でもあった。金曜の午後、ミヒャエル・エンデは、彼の本の出版元であるエディチオーン・ヴァイトブレヒトの二人――つまり社主のヴァイトブレヒト氏と、編集者のホッケ氏――といっしょに到着した。ヨーゼフ・ボイスは、FIU(自由国際大学)事務局のウルリケ・ハーベルといっしょに、電車でやってきた。
 午後のコーヒーを飲んで打ち解け、まだ子どもの叫び声が聞こえるうちに、会話がはじまった。そして夕食後、私たちの小さな話の輪には、いま挙げた人のほかに、FVA(アルゲンタール自由市民カレッジ)のメンバーが加わった。ミヒャエル・フール、ダグマル・クレミーツ=フール、マリタ・ラップマン=コップ、ミヒャエル・ライン、ベルント・フォルク、ガービ・フォルク、それに私。
 翌日、アハベルクのフンボルト・ハウスでは、さらに多くのFVAの仲間が加わって、討論が行われた。そして日曜の午前、討論の成果が、ヴァンゲン・ヴァルドルフ学校の記念ホールで、千人をこえる聴衆に披露された。
 ふりかえって見ると、金曜の晩の最初の会話が、いちばんおもしろかった。そこで、まずそれを本にすることにしたのである。この本に収めた写真は、どれもみんな、二日目か三日目のものである。
 なぜ私たちは、FVAという枠のなかで、ヨーゼフ・ボイスとミヒャエル・エンデを会談させようと考えたのか? ふたりには共通の前提があったからである。ともに有名な芸術家であるふたりは、ルドルフ・シュタイナーの思想と真剣に取り組んでいたのだ。思想家で人智学者のシュタイナーは、第一次世界大戦後の混乱期に、『社会有機体の三層化』によって、現代の社会の状況を健康にしようと考えて、登場した思想家であり人智学者である。彼はその思想を、一本の赤い糸に結びつけた。その糸は、すでにフランス革命において輝いたものだが、とくにフリードリヒ・シラーはその糸を。書簡『人間の美的教育について』において、まったくちがったふうに撚り直した。シュタイナーは、単一民族国家の利害関係をこえて自由な《精神》を擁護した。《法》において民主的な平等を擁護した。連帯と兄弟愛をもとづいた《経済》を擁護した。その姿勢は、当時、左のイデオローグたちの車輪と右のイデオローグたちの車輪にはさまれてしまった。シュタイナーの思想がはらむ射程に気づいた人は、ごくわずかだった。その思想を自力で発展させることができた人は、数えるほどしかいなかった。すくなくとも第二次世界大戦後、まさに、「政治的なシュタイナー」と取り組みつづけている少数派のひとりが、ヨーゼフ・ボイスである。彼は、シュタイナーの思想の「地上ステーション」とか「投錨地」を、現代に確保することが、自分の課題だと考えた。そういう炎としてシュタイナーの思想は、ボイスと生活と仕事を貫いていた。とくにそれは、60年台後半に「芸術という概念を拡大する」というキーワードで脚光をあび、最終的には「社会という彫刻」という考えに集約されるようになったものにおいて、明らかである。

 ミヒャエル・エンデの仕事においても、似たようなバックグラウンドがあるようだ。いちばんはっきりそれが目につくのは、エプラーとテヒルとの会話『オリーブの森で語りあう』だが、そこではエンデが直接、三層化の局面について語っている。彼がこの思想と取り組むようになったのは、一九六八年にまでさかのぼる。「ヒューマニズム・ユニオン」のメンバーとして、学生運動に参加した頃だ。当時、彼はシュタイナーの三層化の考えに、自分の探していたものを発見した。「つまり、はたと気づいたのです。自由・平等・兄弟愛という三つの理想、あるいは自由・民主主義・社会主義といってもいいわけですが、これらは、たったひとつの社会有機体(つまり国家)の手によって実現されるべきだとすると、お互いに排除しあわなくてはなりません。それぞれ独自の法則によって動いているこれら三つが、おたがいに作用しあうには、それぞれの当局がたがいに独立していなくては、不可能です。《精神》は『アナーキー』であるべきです。《経済》は『兄弟のように』または『ソーシャルで』あるべきです。そのあいだで《国家》は調整役として、法律をつくって、その適用を保証すべきなのです。そこだけが。平等(または民主主義)の場です。法律はだれにも等しく該当するわけですから」。
 結局、ふたりの芸術家は、一方の領域、つまり芸術が、もう一方の領域、いわゆる「政治」に、どこまで介入するべきか、介入できるかについて、広範囲にわたって自分の考えを述べることになった。ヨーゼフ・ボイスは、芸術の概念を拡大した。未来の造型のフィールドとなるのは直接、社会有機体であり、みんなの参加によって、その有機体を、未来の美、目には見えない彫刻に展開・発展させるというのだ。これにたいしてミヒャエル・エンデは、芸術の概念をむしろもっと狭くとらえる。彼の考えによれば、芸術家には、特殊な使命がある。意識をつくりあげるような「イメージ」、新しいライフスタイルを提出することだ。大多数の人々が望ましいと思うような、あるいはそれしかないと思うような、未来の社会秩序をあらわしたイメージとかライフスタイル。それを提出するのが、芸術の課題というわけだ。
 ふたりの出会いを準備していた段階では、私たち自身、つまりアルゲンタール自由市民カレッジのメンバーは、このような微妙な差異にほとんど気がつかなかった。私たちのインスピレーションの源泉のひとつは、いずれにしても最初から、「社会有機体の三層化」の思想であり、ヨーゼフ・ボイスが取り組んだように、それを時代に即して加工し展開することだった。じっさいボイスとは個人的な関係があり、とりわけそれは、共同プロジェクトとして結晶した。しかし私たちは文化の領域で活動しているわけだから、同様にミヒャエル・エンデの視点のおかげで、私たちの立場が明確になり、細かいちがいのあることもわかった。

 一九八五年二月に出会ったとき、ヨーゼフ・ボイスがその後一年もたたないうちに、還らぬひととなろうとは、だれひとり思いもしなかった。ミヒャエル・エンデも最初は、会話の記録を公表する決心がつかなかった。こうして出版の話は、先送りになった。とはいえ、時間をこえて興味深いことがじつに多く語られているし、また重要なドキュメントでもある。というわけで私たちは、第一ラウンドの会話を世に問う決心をしたのである。ありがたいことにミヒャエル・エンデとヨーゼフ・ボイス遺作管理委員会は、計画に理解をしめしてくれた。編集にさいして心がけたのは、発言wそのまま、ということは断片のまま、収録することだった。ただし、忘れないでいただきたい点がある。ミヒャエル・エンデは、ヨーゼフ・ボイスとちがって、視点のいくつかを明確にするため、草稿に手を入れることができた。
 経済的な援助をしていただいた「政治エコロジー協会」、そして、テキストの編集の手助けをしてくださったみなさんにも、お礼を申しあげたい。
 これから世に出るこの本が、興味をもって読まれ、さまざまな立場を明確にし、新しい考えのきっかけとなり、また、未来の芸術の課題にかんするアクチュアルな議論に役立つことを、私たちは希望し、期待する。

本書をFVAのメンバーおよび賛助メンバーに捧げる。

一九八九年夏 アルゴイ/ヴァンゲンにて

ライナー・ラップマン


丘沢静也 訳 一九九二年 岩波書店