黒耀会の経過 望月桂
一般無産者階級の人達も近頃は大分目が覚めて、昨日の悪も今日の善と悟り、既に新機の方法で制作にとりかかっている。処が今までずっと手を替え品を替えて圧迫と誤魔化しとで馴らされ切って来たものだから、なかなかお互いにそうチョックラ一寸手でも洗うような訳には行かぬので、まだかなり矛盾は残されてあるのだ。その一つとしては芸術問題がある。労働者は余りは生活が荒み霊も体も疲れ果てたために、すぐ目の前にある自分にとっては唯一の最善なる芸術が、月の世界の物ででもあるかのように想像し、及ばぬ事と観念して納まり返って仕舞っている。甚だしきに至っては、自ら行いつつある芸術を芸術とは気は付かず、中風患者の小便のたれ流し程にも感じないのだ。それで商売人の誂えて呉れた化物をのみ芸術と心得ていたのだから、分業制度は安全に続く。芸術運動は労働運動の邪魔物になるなどと云う片手落ちした寝言も出る。こんな文句の出る間は、我々労働者も完全な人間には到底成り得ない。そしてその間は勿論資本家制度は万々歳だ。だが可笑しい事には幾ら金力万能でも権力万能でも不平があるそうだ。一寸不思議な様だが合理的だ。凡てが他人任せに仕様とする処に起こるのだ。風呂の加減だって三助任せじゃどんな目に合うか知れやしない。食い物の甘い辛いも自分の舌より他に信じられるものはない。色合いにしろ、音色にしろ、如何に他人が選択に努力して呉れたからって自分が嫌いならそれまでのことだ。何だって自主自治に優るものは無かろう。
生活即芸術だ……破壊は創作だ……こんな談が仲間で無秩序に繰り返されていたが遂に、労働運動の研究会や、経済革命の学術的研究の他に、持って生まれた性分から来る趣味に生きたい、せめてもの息抜きにという訳で、革命芸術の研究茶話会を開くことになり初声を挙げたのが丁度去年の九月五日の晩であった。最初の中は会合者もホンの四五名位であったが段々に増えるようになって、十二月五日には会の名前も出来、会則なども出来て基礎が固まった。今年の正月社会党……の新年会には新橋の平民クラブに、横浜の金港亭に黒耀会員一同大奮闘で荒畑寒村氏作の脚本「電工」の上演や舞台装飾に於いて民衆芸術の処女作として公表したのだが意外に好評だった、四月三、四両日には牛込築土八幡前同好会で第一回作品展覧会開催、出品書画百数十点、同志の健実なる努力に依り成績は予想以上で都下の各新聞は筆を揃えて此の新しい大胆な試みと成功を祝福されしは聊か流飲を下るに足る。続いて此処に展覧会と同一の主旨に依って期間雑誌として「黒耀」を発行する事になった。また近々音楽会の催しやその他にも色々と新しい計画に就いて十分な研究と準備をすすめている。
『黒耀』一号 一九二〇年六月