2月12日から17日までA3BCの木版画ワークショップを行うためにロンドンへ行ってきた。Lushという社会問題にも取り組むイギリスに本社のある企業のイベント「Lush Summit」に招待されたからだ。年末にインスタグラムのメッセージで届いた。現地の担当者はA3BCもバナーを出品していたロンドン・アナキスト・ブックフェアでSignalを見て招待を決めたそうだ。三人分の渡航費と滞在費を負担するという。とはいえ企業の行うイベントに参加することは少なからず抵抗感がある。先方のアイデアでは、社会運動支援のTシャツのデザインをお願いされたのだが、支援するならその運動を自分たちで理解して決めたいわけだし、そもそもお金を通した支援を行うつもりはないので、ワークショップを行えるなら参加すると伝える。それでも是非ということなので参加することにした。古い建築物を利用したイベントスペース4フロアーを贅沢に使った、主に各国の社員教育のための二日間で2千人規模のイベントで、全てが英語なので内容の深いところまでは確認できなかったが、かなり盛り上がっていた。二日間、各日三時間ずつのワークショップを行ったが、参加者は途切れることがなかったし、各国からの参加者がそれぞれの思いを木版画で表現していた。みんなの作品を刷った一枚の良いバナーが完成した。良い形で木版画やコレクティブの活動というものが伝わればいいと思う。コレクティブと企業との協働ということに関して結論を出すことは出来なかったが、勉強にはなった。これからもイデオロギーや貨幣に縛られることのないフットワークの軽さを持ち続けたいと思う。
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ヒロシマ・モナムール
アラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本『ヒロシマ・モナムール』
邦題は『二十四時間の情事』だが、1959年公開。そういった時代だったのだろう。
こんな重要な映画を見てなかったんだなと思う。
英語字幕ならWEBにあった。
https://vimeo.com/channels/868273/117987724
Elle : Tu n’as rien vu à Hiroshima. Rien.
君はヒロシマで何も見ていない 何も
Lui : J’ai tout vu. Tout.
私はすべてを見たわ すべてを
いま、デュラス的なものが絶対的に欠けているのではないだろうか。
概要(Wikipedia)
外部からやってきたフランス人という存在が、原爆をどこまで知ることができるのか? というアラン・レネ監督の想像から映画制作は始まった。人間が、現実を批判しながら自己の心の在りかを探求していく過程を、個人の内面にある戦争を背景に描いた作品である。
当初はカンヌ国際映画祭でフランスからの正式出品のはずだったが、1956年の『夜と霧』と同じく「時宜を得ない」との理由で却下され、コンクール非参加作品として特別上映された経緯がある。映画祭がこの作品については当時の米国の心証を、その前の『夜と霧』ではドイツの心証を、それぞれおもんばかったと言われた。ジョルジュ・サドゥールはこの作品を「時代を画する作品」と激賞し、「FILM辞典」でも「ヌーヴェル・ヴァーグの最も重要な作品」と評価した。
この作品は1959年度カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞と1960年度ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞を受賞している。
1979年セザール賞のフランス映画トーキー・ベスト・テンでは、史上第7位に選出された。
映画の全編(ヒロインの第二次世界大戦中の回想シーンを除く)のロケーションを1958年当時の広島市で行い、多くの市民が撮影に参加している。2人が情事にふける立町のホテル周辺や、フランス語で記載されたプラカードで反核平和を訴えるデモ行進を行っているシーンなど、多くの市民の姿が映し出されている。当時の広島駅、平和公園、広島平和記念資料館、新広島ホテル、広島赤十字・原爆病院、本通り商店街、原爆ドーム、太田川なども登場する。
映画の製作に、フランス側は『夜と霧』を製作したアルゴス・フィルム他、日本側は大映、そしてパテ・オーヴァーシーズがとりまとめた合作映画である。映画の題名は初期の企画段階では「ピカドン」だった。
ゆれるゴッホ
1月28日のFAUゴッホレクチャー、やはりアブサンを舐めて聞いてもらいたいなと、ふるまいアブサンを一本買った。まだ見ぬアルルを感じる。ちょうどゴッホが『お菊さん』を読んで日本を感じていたように。
魔法使いの弟子
2015年に出版されたジョルジュ・バタイユ『魔法使いの弟子』定価520円のその小冊子はバタイユと結核で死にゆく恋人「ロール」との愛の世界のエクリチュールだ。景文館書店から発行されたその表紙にはなぜかキリンジのスウィートソウルのPVのカットが使われている。キリンジのことは何も知らないし、なんとなく使ったのかとも思えるが、ゆっくり聞いてみたいと思う。
偶然の《恐ろしい》王国に背を向ける大衆のことを考えると、たちまち長い不安の中へ落ちてしまう。そうなるのはもう抗いがたい。じっさいこの大衆は、安全に確保された生が、そのまま妥当な計算と決断にだけ依存するようにと求めているのだ。恋人たちや賭博者たちは《希望と恐怖の炎》の中で燃えあがりたいと思っているのだが、そのような意欲を失った人々からは、あの《ただ死とのみ拮抗する》生は、遠く離れていく。人間の運命は、気まぐれな偶然が事を図るのを欲している。これとは逆に、人間の理性が偶然の豊かな繁殖に代えて差し出すものは、生きるべき冒険などではもうなくて、実存の諸困難へのむなしくて妥当な解決なのだ。何らかの合理的な目的に関わる行為は、奴隷のように耐え忍ばれた生活の必要性に向けて打ち出された答えでしかない。逆に、好運の魅惑的なイメージを追い求める行為こそ、唯一、炎のように生きる欲求に応えているのである。 ジョルジュ・バタイユ
オーヴェールの教会と麦畑
FAUでゴッホの話をするのに、墓参りに行った時のことも話そうかと、データを焼いたDVDの写真を探したが見つからない。オーヴェールの教会と麦畑の写真だけは残されていた。
同じフォルダにあったおまけの写真は、ポルトガルで会ったアーティストに、おみやげで持っていった越中ふんどしの付け方を教えているところ。 次の日には「俺を男にしてくれた!」と喜んでいた。いったい彼に何があったのだろう。
永井荷風『江戸芸術論』
というわけで、ゴッホの話をすることにした。『ゴッホの日記』を中心に話すつもりだが、浮世絵について触れないわけにはいかない。本棚に永井荷風の文庫『江戸芸術論』を見つける。いつ買ったのか、ちゃんと読んだかどうかは忘れてしまっているが、目を通すと、今回話そうと考えていることに大いに関わるものだった。
…特殊なるこの美術は圧迫せられたる江戸平民の手によりて発生し絶えず政府の迫害を蒙りつつしかも能くその発達を遂げたりき。当時政府の保護を得たる狩野家の即ち日本十八世紀のアカデミイ画派の作品は決してこの時代の美術的光栄を後世に伝ふるものとはならざりき。しかしてそは全く遠島に流され手錠の刑を受けたる卑しむべき町絵師の功績たらずや。浮世絵は隠然として政府の迫害に屈服せざり平民の意気を示しその凱歌を奏するものならずや。官営芸術の虚妄なるに対抗し、真性自由なる芸術の勝利を立証したるものならずや。宮武外骨氏の『筆禍史』は委ぶさにその事跡を考証叙述して余すなし。余またここに多くのいふの要あるを見ず。
宮武外骨の『筆禍史』も読まなければならなくなってしまった。
ゴッホと協同組合
少し前にも書いたが『ゴッホの手紙』は現在の活動の原点だ。ゴッホが勘違いして理想化してしまった、表徴の帝国「日本」。そしてゴッホが夢見た画家の《協同組合》。そんなものは日本には無かったのだよと、あの世のゴッホに伝えたい。しかし、芸術協同組合の可能性をいま考えることはできるだろう。来年の初春に自由芸術大学で《ゴッホと協同組合》についてのレクチャーを行おうと考えている。
人びとは、ヴァン・ゴッホの精神的健康について云々するかも知れぬ。だが彼は、その生涯を通じて、片方の手を焼いただけだし、それ以外としては、或るとき、おのれの左の耳を切りとったにすぎないのだ、
ところが彼の生きていた世界では、人びとは、毎日、緑色のソースで煮たヴァギナや、鞭で引っぱたいて泣きわめかせた赤ん坊の、
母親の性器から出てきたところをつかまえたような赤ん坊の性器を喰っていた。
これは、比喩ではない。全地上を通じて、大量に、毎日、くりかえされ、つちかわれている事実である。
それにまた、このような主張は、いかにも気ちがいじみたものに見えるかも知れないが、現代の生活は、まさしくこんなふうにして続いているのだ。乱行、無政府状態、無秩序、錯乱、放埒、慢性の狂気、ブルジョワ的な無気力、精神異常(なぜなら、人間ではなく世界が異常なものになったのだ)、故意の悪行と、とてつもない偽善、すぐれた素性を示すいっさいのものにたいするけちくさい侮蔑、そういったものの作りなす古くさい雰囲気のなかで、
最初の不正の遂行のうえに築きあげられた或る秩序全体の要求、
そして最後に、組織化された罪、これらのものの作りあげる古臭い雰囲気のなかで続いているのだ。
自体は悪質だ、なぜなら、病んだ意識は、このようなときには、おのれの病からぬけ出せぬことに、根本的な関心を抱いているからだ。
かくして、いたんだ社会は、精神病学なるものを作りあげたのだが、それは、この社会にとってはなんとも具合の悪い予見力をそなえた、何人かの卓抜な千里眼的人物の探査からおのれを守るためである。
アントナン・アルトー『ヴァン・ゴッホ』序文より抜粋
心からご冥福をお祈り致します
12月16日「2017年度日本生協連資料室 土曜講座」で『原水禁署名運動の誕生』の著者、丸浜江里子さんが《戦前~戦後の城西消費組合の中心メンバーたちの生協活動》をテーマに講義をされる予定だった。
ひと月前、11月19日には自由芸術大学のレクチャー《戦後初の公選杉並区長―新居格から受け継ぐこと》で公益学を提唱されている小松隆二さんと新居格についての講義をお願いしていた。9月末に浜田山の喫茶店で直接お会いして打ち合わせを行った際には、自転車で来られるほどお元気だった。11月14日に病室からお電話をいただき、体調が良くないのでレクチャーに出られないとの連絡を受けた。12月16日の講義もお有りだし、無理しないように欠席していただいた。当日、電話を繋いで少しお話いただこうかとも考えたが、ご無理をさせてしまってはと、小松さんにお願いして丸浜さんの時間もお話いただいた。
12月7日に丸浜さんが亡くなられたとの連絡を受ける。突然の訃報で言葉にならない。
11日に行われた通夜でご焼香させていただいた。百人以上並んでいただろう、大勢の弔問客がいらしており、生前のご功績が偲ばれる。受付で、仕事関係者/運動関係者/一般の選択項目があった。少しの時間悩む。しいていえば、運動関係者なのだろうが、なぜか気が進まず「一般」に丸をつけた。
丸浜さんとはごく最近、日常の繋がりの中で出会うことになった。版画コレクティブA3BCが毎年出品している原爆の図丸木美術館で行われる「今日の反核反戦展」。実行委員会にも参加した関係で、年に数会通うようになった。はじめて原爆の図 第10部 《署名》を見た時から気になっていたのだ。杉並で展示されたことはないだろうし、そのために自分が動かなくてはならないのではないかと。
今年の春に自由芸術大学を立ち上げ、7月2日に「美術が繋ぐ広島・沖縄──原爆の図丸木美術館と佐喜眞美術館」と題したレクチャーを二つの美術館の学芸員の方に行っていただいた。そのレクチャーを機会に「杉並で署名を展示する会―準備会」を立ち上げる。少し前に、商店街の商店会の総会があった。議員に立候補したこともある商店会長に「展示する会」について相談すると、丸浜さんの著書『原水禁署名運動の誕生』を貸してくれた。表紙には原爆の図《署名》が使われていた。その深く広がりを持つご研究に感銘を受ける。
「杉並で署名を展示する会―準備会」は会議を続けていくうちに、来年が杉並区平和都市宣言30周年ということで、「杉並から平和の輪をつなぐ会準備会」となった。原爆の図《署名》の展示にとどまらず、六十年前の『原水禁署名運動』のように杉並から世界につながる運動が起きないかと考えている。いや、起きなければならない。丸木位里・丸木俊、そして丸浜さんの意思を継いで。
次回の「日本生協連資料室 土曜講座」は中止になるだろう。丸木美術館で行われる《ICANノーベル平和賞受賞記念・川崎哲講演会「核兵器禁止条約で変わる世界~日本はどうする~》に行くことにした。
丸浜江里子様のご逝去を悼み、心からご冥福をお祈り致します。
Trans Local Exchange and Trading System
地域通貨は個人が発行する貨幣なのだが、現行の債権(借用書)としての貨幣に倣ったシステムであり、結局、負債を抱える人が出てくる。債権でない貨幣は金貨のようなそれ自体に価値があると信じられている『物』なのだが、ここにきて『仮想物』としてのビットコインという新しい貨幣が出現した。いわゆるエコマネーをブロックチェーンの仕組みを使って作れば、理想的な地域通貨が作れるのではないだろうか。その場合、中心の無いグローバルな仮想通貨は地域通貨/LETS(Local Exchange and Trading System)とは言えないので、TLETS(Trans Local Exchange and Trading System)と名づけることにする。まだ考えがまとまっていないのだが、来年、自由芸術大学で実験的に既存のオルトコインを使った〈TLETS〉交換を始めてみようと思う。いつかアカデミーコイン、アートコインのようなオルトコインが出来ることを期待して。
貨幣芸術
芸術を目指した頃から、自分の作品をお金に換えることに違和感を持っていた。
作品は誰かの為に作るわけではない。
それはわたしの世界への問いかけなのだから。
誰かの為に作品を作ったとしたなら、それはそれで贈ればいい。
しかし、生活と芸術を分ける暮らしの中で、あまりにも労働に時間をとられてしまっていた。
とにかく一度労働をやめてしまおうと思った。
神戸淡路大震災、オウムサリン事件の2年後の1997年のことだ。
床ずれが出来るほどベッドの中で宮沢賢治「農民芸術概論」とゴッホの手紙を繰り返し読んだ。
一切の知識のない中、ホームページや自宅サーバーを立ち上げようと、何日も徹夜した。
時間のかかる点描の油彩画を描いた。
細い筆で何度も繰り返し色をカンバスに置くこと、それはひとつの祈りのようだった。
バブル後の不景気の中で、資本主義の限界を感じたわたしたちは、マイナス成長の経済を考えはじめていた。
資本による経済と、生活の経済とを切り分けることだ。
地域通貨がブームとなった。
しかし、地域通貨が主な交換手段になるほどのコミュニティはほとんど生まれなかった。
すでに世界は地域ではなくなっていたのだ。
貨幣とはなにかということを考え始める。
フリーソフトウェア―の「フリー」に経済や芸術の可能性を見た。
そしてD.I.Y.。偽札ではなく、本物の通貨を自ら創造すること。
絵を描くことで発行できる地域通貨の実験もした。
その中で、貨幣の持つアウラを一度消すことが必要と考えた。
複製技術時代の不換紙幣の持つアウラとは何か。
金兌換を不要とすることによって、人の命が通貨の裏付けとなった。
生政治の始まりなのだろう。
貨幣にまつわる作品による個展を開こうと考え、作品のエスキスを作っていた頃、Bitcoinという新しい通貨が生まれていた。
Bitcoinにまつわる作品が無ければ、個展として成立しない。
しかし、所在不明の日本名を名乗る人物が考案し、オープンソースソフトウェアで作られ、P2Pで取引できる暗号通貨であること程度しか分からない。
作品を作るためにBitcoinを持ってみたいと考えたのが2014年はじめ、1BTCが2万円程度だった頃だ。
相変わらず生活に余裕は無いし、お金と交換するのは違う気がした。
とりあえずビットコインウォレットを作ってみたものの、何も分からない。
数日の間に1BTCが3~4万円になっていたので、儲けることが好きそうな知り合いのアメリカ人に勧めてみた。
最近白状したのだが、その時に1BTC買っていたらしい。
そして、Bitcoinを少しだけ分けてくれた。
先週、その時の1BTCは100万円程度で、現在、1,234,567.90円だそうだ。
もう少しで一気通貫ではないか。
今年になってBitcoinの価値が急激に上がりはじめた。
2010年にはじめてBitcoinで決済が行われたのは、25ドルのピザ二枚を10,000BTCで購入できた時だ。
今、Bitcoinを生活の中の交換価値として使うことは難しいと思う。
Bitcoinは投機対象となったのだ。
Bitcoinを一度移動させたくて、別のウォレットに送ってみた。
千円送って、500円届いた。
その500円は今767.14円になっている。
Bitcoinの作品を作ることが出来たら、その時は個展を開くつもりだ。