伊予灘物語

何十年か振りに正月を実家で過ごした。祖父が駅長をしていた「伊予上灘駅」近くの海岸が、最近整備されているとのことで、予讃線に揺られて行ってみます。綺麗になった砂浜と、新しくできた道の駅で記憶の風景とは違う、少しおしゃれな浜になっていました。

海沿いに道路が出来るまでは日本一海に近い駅と言われ、最近はインスタ映えがすると有名になった「下灘駅」まで5~6キロ歩きます。坂の途中のかなりさびれた場所ですが、駅ではカップルや家族連れが写真を撮っています。電車が来るまで二時間近く待って「伊予上灘駅」に戻ると、もうすぐ日没、夕日が綺麗ということになっている浜に戻って2024年1月5日の、昔と変わらない夕陽が沈みます。

白い雨

広島アビエルト芝居小組公演3年目の舞台美術の手伝いを終えて、JR可部線「上八木駅」から「横川駅」に行く。「横川駅」は井伏鱒二の小説「黒い雨」の語り部である閑間重松が被爆した駅だ。電車を一本乗り過ごしてしまったので、午前8時15分には間に合わなかった。駅のホームには時計が無い。最近、JRが時計を取り外しているそうだが、駅のホームに時計が無いのはどうかと思う。1945年8月6日当日の閑間重松の足跡を辿ろうと、横川駅から歩き始めた。

空には雲一つなく、太陽の核融合の光が燦燦と降り注いでいた。土地勘が無いので道を間違えたり、迷ったりしながらも、2日間かけて大雑把に足跡を辿ることは出来た。それなりの理由があるとしても、原爆が投下され、混乱の極みにあった日に、どうして広島中を歩き回らなければならなかったのだろう。だが、そのおかげで原爆投下当日の広島の全体像が描かれることになった。この小説は重松静馬の「重松日記」を元に書かれたという。

翌日は雨だった。白い雨だ。広島駅前のホテルから宇品港まで歩き、横河駅まで戻る。東京への列車に乗るために広島駅に着いた頃には日が暮れていた。重松が通った道はいくつか行きそびれてしまったが、アビエルトの芝居で語られていた、頂部に金鵄が飾られている「平和塔」に立ち寄る。元々は「日清戦争凱旋碑」だったのを、敗戦後に「凱旋碑」の文字をセメントで塗りつぶし「平和塔」に変えてしまったそうだ。他にも白く塗りつぶされたり、地中に埋められたりした碑がいくつかあるらしい。日本人らしいといえばそれまでだが、とにかくそれは御幸通り、御幸橋近くの脇道を入った住宅地の小さな公園に似つかわしくない様で、今も立ち続けていた。

ユキノシタ

子どもの頃、子ども雑誌か何かに、太陽の光に照らされた、雪の中で芽吹いている植物の写真があった。それは〈ユキノシタ〉ではなく〈フキノトウ〉だったと思うが、ほとんど雪の積もらない瀬戸内に暮らす子どもには、妙に魅力的に思えた。古井由吉の『雪の下の蟹』を読んだときも、その感覚がよみがえった。自分にとって「雪の下」は日常の中の非日常のようなものなのかもしれない。2022年2月10日に、現在暮らしている東京に雪が降った。大雪になる予報だったが、2センチの積雪量で、晴れた翌朝にはほとんどの雪は溶けていた。朝散歩しているときに、公園の花壇に残った雪の中から、顔をのぞかせている小さな花が目に入った。花の部分だけ雪が解けていた。花は発熱しているのだろうか。

 

監獄と檸檬

大正から昭和にかけて、多く思想・政治犯を収監したという中野(豊多摩)刑務所。政治犯といえば、大正時代の爆弾テロや1970年代の爆弾闘争を思い起こす。最近は日本で爆弾のニュースを見ることは無いし、今世紀に入り、あのMachintoshでさえ爆弾を捨て去った。1983年に中野刑務所は閉鎖されて、今は平和の森公園になっている。東京オリンピックの話が出たころに、運動公園にする計画が立ち上がり、二万本近くの樹木を伐採して、競技用トラックや体育館を作り始めた。先日、寄ってみるとすでに競技用トラックも体育館も完成していた。公園がスポーツによって乗っ取られたのだ。体育館には「キリンレモン スポーツセンター」の看板が。レモンといえば梶井基次郎の『檸檬』ここでも〔黄金色に輝く恐ろしい〕爆弾だ。唯一残されているレンガ造りの中野刑務所正門にカメラをむけたら、自転車に乗った女性が目の前に停まって動かない。スマホを見ているだけかもしれないが、テロリズムを予感した。

https://www.youtube.com/watch?v=fQDMfAG75fw

Khodaa Bloom

若いころに自転車とかで遠出するような、自分探しの旅をしたことはない。15年ほど乗っていたママチャリが変な音を出し始めた。そろそろ買い替えの時期だと思い、自転車を調べていて、クロスバイクとかにしたら、行動半径も広がると考えた。20キロ程度なら楽勝とのこと。荻窪から半径20キロを調べると、東は亀戸、西は立川まで行ける計算だ。早速、近所の自転車屋に行って、安くて良さそうなものを探すと、Khodaa Bloomという日本のメーカーが作っている入門車が三万円台であったので購入する。ママチャリさん、長い間ありがとう。24段ギアなんて乗ったことがない。とりあえず慣れるために10キロ程度走ってみようと、地図を見ていたら、荒川が大体13キロと案外近いことに気づいた。荒川なんて夢の島あたりの遠い河だとばかり思っていたが、秩父の長瀞も荒川だったと思い出す。ということで「彩湖」というヒッチコックの映画のような場所を目的地にした。環八から笹目通りに入って、高島平のあたりで荒川に向かう。電車で行くと随分遠回りさせられていた、マルセル・デュシャン「泉」のレプリカがある板橋区立美術館も近い。荒川の土手に上がってあたりを見渡す。多摩川だと山とか起伏があって「風景」になるのだが、埼玉らしい色気のない見晴らしだ。対岸に渡る橋を探しながら、荒川サイクリングロードを流す。土手やらグランドやらの草刈りをしていて、草の強いにおいがする。秋ヶ瀬橋を渡り彩湖へ。この調整池も色気が無い。途中でおじさんたちが模型のヨットレースをしていた。カウントダウンがはじまり、スタートしたはずなのだが、どのヨットもほとんど動かない。風があまりなかったからかどうか分からないが、面白そうではなかったので、ふたたび土手にあがると、河川敷に数軒のムラが出来ていた。里山的に整備されていて、小さな畑もある。増水は心配だが、人間はそうやって、自然と闘い、共存しながら生きてきたことを思う。河川敷の隣は整備されたゴルフ練習場だった。

Balthus / room17

メトロポリタン美術館に展示されているバルテュスの《夢見るテレーズ》の撤去騒動や、<セクシスト>ピカソへの抗議活動、他にもいろいろあるのだろうが、それら「退廃芸術」への民衆による監視が進行していると聞く。バルテュスは晩年、目が悪くなって少女のデッサンが困難となったときにポラロイドカメラを使ってその代わりとした。それは下絵に過ぎないのだが、バルテュスでなければ撮ることのできなかったポラロイドとして、それはやはりバルテュスの作品なのだと思う。

Lomography

インスタグラムを見ているとロシアのアマチュア写真に面白いものが多い。民衆芸術はやはりロシアなのだ。ソビエト時代にレニングラード光学器械連合(LOMO)が作ったLC-Aという日本のカメラのコピーがあるのですが、その品質の悪さによる偶然性や味のある描写には熱烈なファンがいて、ロモグラフィーという芸術運動も起こったそうです。いわゆるトイカメラの起点となるこのカメラをウィーンのロモグラフィー社が引き継ぎ、現在も発売されています。このロモグラフィー社が面白くて、今どきフィルムカメラやフィルムの新製品を出し続けています。ロモグラフィーのコミュニティサイトには容量無制限で写真をアップできるアルバム機能もあって、特に制約があるわけでは無いのですが、そのほとんどはフィルム写真です。フィルムやフィルムカメラの参考に見ていたのですが、思い立って自分も登録してみたところ、lomography.jpが毎月10点ピックアップしているコーナーに選ばれていて、自分の民衆芸術度が評価されたようで嬉しかった。

https://www.lomography.jp/magazine/346310-lomography-trending-photo-of-april

増感/減感

なんとか失敗しないでLPLのステンレスタンクリールにフィルムを巻くことが出来るようになった。増感/減感現像にも手を染めてしまった。そういうことだったのかと気づく。

Shinjyuku | 増感現像
Park #07 | 減感現像

浅葱色

散歩写真を撮りながら、扱いに困ってエアコンの室外機の奥に立てかけるしかなかった町内地図看板が目につきました。普段なら気にも留めない、よくある看板です。手書きで作られた、家の境界線もほどんど消えている古い看板。郷愁を覚える色に惹かれたのだと思います。いわゆるパステルカラーで「ミントグリーン」だと思いましたが、気になってネットで色見本を探して比較してみると、ミントグリーンよりも青みがあって、英語(カタカナ)名の色見本に近い色はありません。日本の色として紹介されている「青竹色」「浅葱色」が近いようです。リトグラフを制作していた頃、使っていたオフセット用のインクの中に「浅葱」というのがあったのを思い出しました。日本のペンキ/インク関係では定番色なのでしょう。中原中也の「言葉なき歌」を思い出す。

あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱の根のやうに仄かに淡い