民衆芸術運動(20)

1945年、日本軍敗戦。太平洋戦争中に勤めていた高島屋工業青年学校の寮生を引き連れ、郷里明科に疎開していた望月は、寮生を帰京させ、自らは明科にとどまる。実家で農業、畜産を行いながら農民組合、農協の設立に奔走する。
1955年には、松本の松南高校に請われ、美術教師に就任、以後十余年にわたり美術教育に尽力する。
1975年に信州新町美術館で初めての個展を開く。同年12月13日望月桂永眠。
長年社会運動に携わりながらも、権力闘争に与することなく、美術を通して自主自立、相互扶助を求め自由に生きた、日本で唯一のアナキスト画家は、89年の生涯を閉じた。

民衆芸術運動(19)

無期懲役の判決を受けた和田久太郎は、1928年2月20日、収監されていた秋田刑務所で自殺する。和田の身元引受人になっていた望月桂は、近藤憲二と共に遺骸を引き取りに行き、火葬する。
獄中からの和田の願いを聞き入れ、逮捕された同志や社会主義者の救援に奔走していた望月であったが、和田の死後活動の一線から身を引き、和田の死をいち早く知らせてくれた、読売新聞記者の宮崎光男の紹介で、読売新聞社に入社し「犀川凡太郎」として約三年間紙面に風刺漫画を描くなど、生活の立て直しをはかる。美術学校時代の同級生の岡本一平、藤田嗣治らと1938年に漫画雑誌『バクショー』を創刊するが、翌年、軍部の指令により配紙を止められ、廃刊に追い込まれる。

民衆芸術運動(18)

陸軍憲兵隊に虐殺された、大杉栄たちの弔いとして、労働運動社の和田久太郎と村木源次郎はギロチン社の古田大次郎と共に、震災時の戒厳司令官だった軍事参謀官陸軍大将の福田雅太郎の暗殺を企てる。1924年9月1日に決行されるが、拳銃の一発目に空砲が入っていたため失敗。和田久太郎が逮捕される。望月桂も事件後すぐに関係を疑われ検束されるが、短い拘留の後、釈放された。
和田は逮捕されて間もない9月20日付けで、望月に手紙を送っている。

君の家庭の如き幸福な善良な人々には、とくに福子夫人の如き人には、あまり心配させるような事はするなよ。第一線には俺のような浮浪人が起つ、独身者に限る。君のような人は陣の背後にあって補助的事務をやってくれ、傷つき倒れる者の病院に成ってくれ。これまた大事業だ。最大必要事だ。

民衆芸術運動(17)

大杉栄らの遺体は家族に引き渡され、9月26日に火葬され労働運動社に祭られた。駒込署に勾留されたままだった望月に尾行が「大杉さんがやられました」と告げ口したのは、震災からひと月が過ぎた10月1日だった。10月5日には釈放されるが、震災の被害が収まらず、大杉の葬儀さえ後回しにしないとならない状況の中、家族を連れて長野明科の実家に身を寄せる。11月末には東京に戻り、第四次『労働運動』の刊行を手伝い、12月26日に行われた大杉栄の葬儀にも参列した。その前夜の通夜に、焼香客を装った三人組の右翼が突然拳銃を発砲しながら、大杉の遺骨を強奪する。逃げ遅れた下鳥繁造を和田久太郎が取り押さえたところへ望月も追いつき、怒りにまかせて下鳥の顔を下駄で踏みつけにする。告別式は遺骨不在の中、予定通り谷中斎場でとりおこなわれた。

民衆芸術運動(16)

1922年9月30日、大阪天王寺公会堂で労働組合の全国統一連合を結成すべく「日本労働組合連合」の創立大会が開かれるも、アナ・ボルの対立により決裂し、大会以降その対立は激しさを増していく。

1923年9月1日、関東大震災が発生する。戒厳令下において、軍隊、警察とその主導により組織された自警団による朝鮮人、社会主義者への襲撃、虐殺が横行し、望月桂の自宅にも憲兵に扇動された自警団が押し掛ける。警察が介入し、保護を理由に望月は駒込署に留置された。

1923年9月16日、震災後行方が不明だった大杉栄の弟勇一から手紙が届き、大杉栄と伊藤野枝は伴だって避難先である会社の同僚の家へ向かう。勇一は妻と妹、橘あやめの息子宗一と無事に避難していた。宗一を連れ、柏木の自宅に戻る道すがら、陸軍憲兵大尉の甘粕正彦ら憲兵に連行され、大手町の憲兵隊司令部でまだ幼い宗一ともども虐殺される。

民衆芸術運動(15)

へちま時代からの民衆芸術運動の同志であった久板卯之助を失い、黒耀会に対する当局の圧力、アナルコサンジカリスト(自由連合派)とボルシェビスト(中央集権派)の対立の激化、望月桂は次第に民衆芸術運動、労働運動から距離を置くようになり、古田大次郎が創刊した『小作人』の発行を通して農民運動へと活動の場を移してゆく。望月は第一回黒耀会展の直後に日本紙器株式会社でストライキを起こし、勝利したのちに退職し、同人図案社を立ち上げていたのだが、貧乏暇なし、活動の時間と資金を確保しようと印税収入を目論んで、1922年11日、アルス出版から大杉栄と共著で『漫文漫画』を出版する。大杉栄が稿料の全てを使い果たしてしまったので、望月の懐には一銭も入らなかったが、これが望月の唯一の(漫)画集となった。

彼奴年来の主張とかいう『自主自治、相互扶助』に祟られて、明日食う米も無くなったので、一策を案じた結果、大杉栄を引っ張り出して『共著』と銘打って出したのが、今度の『漫文漫画集』なんだ。読者諸君も此の種が判ったらドシドシ買ってやってくれ
『労働者』1922年

望月桂の絵もまだまだです
大杉栄

これが僕の癖、しかもちょっと何かに困った時にやる癖だそうです。
が、僕の癖をつかまえるのなら、そんなつまらない癖でなく、もっともっと面白い、いい癖がある筈です。それは例の吃りから、金魚のように飛び出た大きな目をぱちくりぱちくりやりながら、やはり金魚のように口をぱくぱくとやって、そして唾ばかり飲みこんで何にも云えずに七転八倒しているところなんです。
それがつかまえられないで、こんなつまらないところしか描けないようじゃ、望月の絵もまだまだ駄目です。

『漫文漫画』

民衆芸術運動(14)

1922年1月21日、運動の資金に充てようと売れる絵を描くために、伊豆へスケッチに出かけた久板卯之助が天城山中で凍死する。

さらば久板君!
望月桂

凍死なんていかにも相応しい、
真黒な大空に銀の星の天蓋の下
静かに更けて行く天城山頂の雪の上、
有つたけ燃やし尽くした体は、
仰向いて安らかに、永い眠りに付いた、
彼の死は確に芸術だ!革命家の死だ。

第三回黒耀展と同じく、第四回黒耀会展も「民衆芸術展」として、1922年6月に上野の日本美術クラブで開催される。当局により、二日目に、中止、解散命令を受ける。新聞記事などの資料も残されておらず、実質一日のみのこの展覧会の詳細は不明だが、第三回展の出品者に加え、翌年に前衛美術団体「マヴォ」を結成する村山知義、柳瀬正夢らも新たに参加している。この第四回展をもって、黒耀会の活動も終わりを迎えるが、村山、柳瀬らは「マヴォ」結成直後に展覧会を開き、機関紙も発行している。黒耀会の目指した革命芸術運動は民衆芸術運動から前衛芸術運動へと形を変え、若い彼らに引き継がれたのではないだろうか。

民衆芸術運動(13)

1921年12月24日~27日に北甲賀町の駿台クラブで第三回黒耀会展とされる「民衆芸術展」か開催される。この展覧会は秋田雨雀が読売新聞紙上でソ連の飢餓救援を呼びかけた「日本の芸術家諸君!」に応答したものだった。その数日前に、堺利彦、大杉栄が企画した展覧会がソ連支援を謳ったために中止命令を受け、弁護士の布施辰治や望月桂が尽力して、再開催された。
この展覧会は第一回、第二回黒耀会展と同じくアンデパンダン形式で行われ、望月桂はじめ黒耀会会員も数多く出品したが、展覧会の目的はソ連飢餓救援のための即売会であり、秋田雨雀、有島武郎、高村光太郎、北原白秋、島崎藤村、小川未明など、当時の著名人が数多く出品したことが新聞等に大きく取り上げられるなど、黒耀会の理念からは大きな隔たりがあった。

民衆芸術論一節

民衆芸術論一節
大杉栄 訳

この頃 ⋯⋯⋯ 一九〇三 ⋯⋯⋯ パリに平民劇場を建てようという企てがある。すでにいろいろな特殊の利害や政治上の利害から、それを自分のものにしようとしているものがある。平民の出費の元に生きようとする寄生木どもは、容赦なく平民の親樹から截り取らなければならない。平民劇は流行の商品ではない。ディレッタント等の遊びではない。新しき社会のやむにやまれぬ表現である。その言葉である。その思想である。そしてまた、危険の際の自然の勢いとして、凋落しかかっている老衰した旧社会に対する、戦いの機関である。少しでも曖昧であってはならない。ただ題目のみが新しい、新しい旧劇、すなわち平民劇の名のもとに変化を求めんとする紳士劇を演ずることではない。平民から出た平民のための劇を起こすのだ。新しき世界のための新しき芸術を建設するのだ。
現に、平民劇の代表者と言われる人々の間に、まったく相反する二派がある、その一派は、今日あるがままの劇を、何劇でも構わず、平民に与えようとする。他の一派は、この新勢力たる平民から、芸術の新しい一様式すなわち新劇を造り出させようとする。一は劇を信じ、他は平民に望みを抱く。その間には何等の共通点もない。過去のための闘士と、将来のための闘士である。
国家がこのいずれの派に属するかは言うまでもない。国家はその性質の上から常にかこの味方である。国家は、その代表する生活様式に少しでも新しいものがあれば、それを妨止しまたそれを凝結させる。誰も自分の生活を固定させるものはない。しかるに国家の任務は、その触れるいっさいのものを化石させ、生きた理想を官僚的理想としてしまうことにある。現に、私がこの文章を書いて以来、時間はわれわれのこの不信任を証拠立てている。平民劇の企てについての国家の干渉は、その必然の結果として、いつもこの企てを変性させて圧しつぶしてしまっている。
一般には今日の文明を、そして特殊には今日の劇を善良なるのと信じている。私はそうは思わない。私はこの妄想を容赦なく攻撃するだろう。今日の選ばれた人々の大多数はこの妄想を抱いている。そしてこのことは、いわゆる選ばれた人々があまり頼むに足らないという、われわれが久しい以前から知っていることの証拠になるのだ。彼等はただ変化を与えようとして無駄骨を折る。もともと彼等は保守主義なのだ。過去の人間なのだ。彼等には新しい社会をも芸術をも創ることはできない。やがて彼等は消滅するのだ。
生は死と結びつくことはできない。しかるに過去の芸術は四分の三以上死んだものである。これはフランスの芸術にのみ特殊の事実ではない。一般の事実である。過去の芸術は生には何の役にも立たない。かえって往々生を害う恐れすらある。健全な生の必須条件は、生の新しくなるに従って、絶えず新しくなる芸術のできることである。(ロマン・ロラン)

『黒耀』表紙に掲載された、大杉栄訳 ロマン・ロラン「民衆芸術論」一節

俺達の文句

俺達の文句 望月桂

俺達のパンは奪われ着物は剥がれて、もう何を考える気力もなければ、首を括る元気さえなく虫の様に只動いているのだが、一体今迄俺達は、当てにもならぬものを鼻先へ釣り下げられて欺されて歩けばよし、一寸でも躊躇しようものなら直ぐに、イヤと云う程尻を打たれて歩くことを余儀なくされて来たのだ。是れが人間の一生なら実に犬猫の方が遥かにましだ。そうかと云って犬猫にはなれもせず、成りたくもない。そこには飽く迄人間としての生活を求めて止まない理想があるのだ。然し又どんな理想があったにしろ、徒らに棚から牡丹餅を夢みていたからとて埒が明かないことも、独りで幾ら力んだとてそう安価に得られもしない事は良く知っている。社会生活をしている俺達は、唯民衆と供に…と云う事が第一条件で、こんなくだらぬ社会に先ず見限りを付け、次に新社会を建設するのだが創造前に一つの大事なことのあるのを忘れてはならない。其処で俺達は最も単純な方法として人間の感情生活の主なる事を知っている。自己の事を自分で決行するに誰に遠慮がいろう。只欲する儘に仕度い事をなし、厭な事はやめるのだ。是れが俺達の偽らざる真に唯一の生き方だ。成程こう云い放しだけでは如何にも理智を蔑にする様に聞こえるかも知れんが人間生活に理智は不必要だと云うのではない只偶像崇拝的な乾からびた様な屁理屈に引回され追い回されて小さく成っていなければならぬ様な時には確かに邪魔である。理智は人間の感情生活のをよりよく自由に為さしめるために必要だ。永い歴史が教うる参考としての突っかい棒である。吾々人間行為を主観的に決定するもの矢張り感情であると思う。某一本倒すにしても只頭の中で理屈を言い合ったからって倒れはしない。それよりも先ず思うままに手を出すとぶっつかる事だ。俺達の賃銀値上、時間短縮は勿論、総ての権力の獲得は、只腹を膨らますためや、寒くなへだけ着るためや、雨の漏らぬ処、風の吹かぬ処で休むためのみではなく、物質的に十分な欲望を充たし、尚且つ精神の享楽をも恣に仕度と云う所謂自由を要求する生の力の表現である。絵でも、文でも、字でも、音楽でも、其の他全ての労働でも、俺達に不必要なことは止めて、必要なことのみ、他人手をまたず直接各自に於いて、意の儘に振舞ってこそ初めて社会的にも、個人的にも真に自由な芸術的生活が生まれよう。斯うなれば他人に強いることも寄りかかる事もなければ不平も起らぬ。天下は此の時初めて泰平だろう。