民衆芸術運動(12)

黒耀会第一回展覧会から七ヶ月、1920年11月23日から六日間、京橋区伝馬町の星製薬(SF作家星新一の実父が経営する、当時東洋一と言われた製薬会社)七階で、黒耀会主催第二回作品展覧会が開催される。第一回展覧会の成功で勢いに乗る黒耀会は展覧会目録を作成、

俺達は抑えられている。しかし俺達は人間として、よりよく生きようと努めている。そこに俺たちの苦しみがあり悩みがある。その苦悩こそ、俺達の光であり、生命の原則である即ち俺達はいつも感覚の中に生きている。夫故に俺達から生まれたる物は本当のものである。ブルジュアーから生まれたる物を、破壊する武器である。いや、現在破壊しつつある。先ず第一に、その火蓋を切ったのは実に我が、黒耀会である。聞け。新しい社会の為め新しい芸術を宣伝している黒耀会は人間運動の根本を創造している。

と宣言する。
会場には、77名、140点の作品が展示されるが、官憲の検閲も厳しくなり、30点余りの作品が撤回、あるいは題名変更の命令を受ける。その際の乱闘騒ぎにより、一名が拘束されている。撤回命令は文書による正式なものでなかったため、そのまま展示を続けるが、京橋警察によって強制撤去される。望月らは、警視庁に電話し盗難届を提出すると共に、弁護士の山崎今朝弥が訴訟を起こし、判決前に作品は返却された。

民衆芸術運動(11)

黒耀会第一回展覧会終了後、1920年6月に機関紙『黒耀』を創刊する。表紙には「革命芸術の運動」(芸術革命ではない)と謳われ、大杉栄が訳したロマンロラン『民衆芸術論』の一節を掲載する。望月桂は「黒耀会の経過」「俺達の文句」を執筆、他には、発行人となった長沢確三郎(青衣)や丹潔、宮崎安太郎、添田唖蝉坊、岡本八技、高尾平兵衛、日吉春夫らが文章を提供している。

黒耀会の経過

黒耀会の経過 望月桂

一般無産者階級の人達も近頃は大分目が覚めて、昨日の悪も今日の善と悟り、既に新機の方法で制作にとりかかっている。処が今までずっと手を替え品を替えて圧迫と誤魔化しとで馴らされ切って来たものだから、なかなかお互いにそうチョックラ一寸手でも洗うような訳には行かぬので、まだかなり矛盾は残されてあるのだ。その一つとしては芸術問題がある。労働者は余りは生活が荒み霊も体も疲れ果てたために、すぐ目の前にある自分にとっては唯一の最善なる芸術が、月の世界の物ででもあるかのように想像し、及ばぬ事と観念して納まり返って仕舞っている。甚だしきに至っては、自ら行いつつある芸術を芸術とは気は付かず、中風患者の小便のたれ流し程にも感じないのだ。それで商売人の誂えて呉れた化物をのみ芸術と心得ていたのだから、分業制度は安全に続く。芸術運動は労働運動の邪魔物になるなどと云う片手落ちした寝言も出る。こんな文句の出る間は、我々労働者も完全な人間には到底成り得ない。そしてその間は勿論資本家制度は万々歳だ。だが可笑しい事には幾ら金力万能でも権力万能でも不平があるそうだ。一寸不思議な様だが合理的だ。凡てが他人任せに仕様とする処に起こるのだ。風呂の加減だって三助任せじゃどんな目に合うか知れやしない。食い物の甘い辛いも自分の舌より他に信じられるものはない。色合いにしろ、音色にしろ、如何に他人が選択に努力して呉れたからって自分が嫌いならそれまでのことだ。何だって自主自治に優るものは無かろう。
生活即芸術だ……破壊は創作だ……こんな談が仲間で無秩序に繰り返されていたが遂に、労働運動の研究会や、経済革命の学術的研究の他に、持って生まれた性分から来る趣味に生きたい、せめてもの息抜きにという訳で、革命芸術の研究茶話会を開くことになり初声を挙げたのが丁度去年の九月五日の晩であった。最初の中は会合者もホンの四五名位であったが段々に増えるようになって、十二月五日には会の名前も出来、会則なども出来て基礎が固まった。今年の正月社会党……の新年会には新橋の平民クラブに、横浜の金港亭に黒耀会員一同大奮闘で荒畑寒村氏作の脚本「電工」の上演や舞台装飾に於いて民衆芸術の処女作として公表したのだが意外に好評だった、四月三、四両日には牛込築土八幡前同好会で第一回作品展覧会開催、出品書画百数十点、同志の健実なる努力に依り成績は予想以上で都下の各新聞は筆を揃えて此の新しい大胆な試みと成功を祝福されしは聊か流飲を下るに足る。続いて此処に展覧会と同一の主旨に依って期間雑誌として「黒耀」を発行する事になった。また近々音楽会の催しやその他にも色々と新しい計画に就いて十分な研究と準備をすすめている。

『黒耀』一号 一九二〇年六月

 

民衆芸術運動(10)

1920年4月2日、3日の二日間、牛込築土の骨董屋同好会に於いて、黒耀会第一回展覧会が開催される。出品者36名、83点(百数十点との報道もある)の作品が、多くは画鋲、テープで所狭しと並べられた。「現在の芸術を打破して自主的の芸術を樹とする(東京日日新聞)」。日本における「プロレタリア美術展」の始まりとして、各紙新聞などマスコミも「芸術の革命」「民衆芸術の実践」として、好意的に紹介している。
企画段階で、有島武郎など交えて出品作を審査する提案を行った大杉に対して、望月は無審査で行うことを主張し、黒耀会はアンデパンダン展として開催される。アンデパンダン展は、既成の判断基準で作品を選別することなく、制作も鑑賞も各人の自主性に任せることで、芸術表現の自立や革新を促すことに重点を置く、展覧会の方法である。
展覧会を見に来た労働運動の仲間の一部から「芸術運動なんか生ぬるい、そんなものが、俺たちの何になろう」との批判があった。黒耀会の丹潔は批判に対し「警察に暴れ込むのも会合を開くのも実際運動であろう。しかし物騒な絵や文字を民衆に見せるのも、実際運動だといえる。それらは○○の前提ではあるが」と答えている。

民衆芸術運動(9)

「革命芸術研究会(茶話会)」は月一回の会合を開き、民衆芸術について懇談した。1919年12月5日の例会で、新たな発展に向かって、正式名称と会則を定め、『黒耀会』が誕生する。わずか一月後の1920年1月には、社会党の新年会で荒畑寒村の脚本『電工』『十二の棺』を上演する。舞台装飾含め、民衆芸術の処女作としての発表であった。
前年の7月には、大逆事件による冤罪で処刑された大石誠之助の甥の大石七分が『民衆の芸術』を出版。1919年には日本創作版画協会の山本鼎が、信州神川で「農民美術練習場」を開講するなど、社会運動と共に、民衆芸術運動も盛り上がりを見せていた。

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民衆芸術運動(8)

1918年の夏に富山の主婦たちが米価の高騰を止めさせるため、魚津港に集まり実力行使で阻止したことをきっかけに、全国規模の民衆暴動が起こった。大杉栄は大阪でその暴動を目の当たりにする。大杉にとって、革命の可能性を肌で感じられるものだったに違いない。
米騒動の数ヶ月前、1918年5月に『労働青年』の当初の発行人であった渡辺政太郎が病死する。渡辺の自宅では、以前より労働問題の研究会が開かれ、望月桂も久板卯之助や大杉栄と共に参加していた。渡辺の死後、後に官憲のスパイになってしまう有吉三吉の自宅へ場所を変え、「北風会」と改名される。この会の中でも、米騒動についての会合「米騒動記念茶話会」が持たれている。労働者革命への機運が高まる中、1919年9月5日、望月は自宅で「革命芸術研究会」を開催する。久板卯之助、小生夢坊、林倭衛、添田唖蝉坊、長沢青衣、中里介山、宮崎安右衛門、宮地嘉六、丹潔、川口慶助といった社会運動の錚々たる若手や芸術家、印刷工労働者などが参加した。

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民衆芸術運動(7)

「へちま」閉店後、久板は以前からその必要性を感じていた、労働者街で労働者と共に生活することで運動を広げて行くために、売文社の和田久太郎と共に、日暮里の労働者街に移り住む。同時期に同じ考えから亀戸の貧民街の借家を借りた大杉栄に呼ばれ、伊藤野枝、生まれたばかりの魔子との五人で共同生活を始める。
一方、千駄木に引っ越した望月は会社勤務を続けながら、大杉栄の「文明批評」出版を手伝ったり、会社の労働組合で活動を行うなど、久板とは違った方法で運動を続けていた。

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前年から始まったロシア革命の進捗と共に、日本の労働運動の機運が高まっていた時代であった。

民衆芸術運動(6)

「へちま」において、望月に多くの社会主義者、無政府主義者を紹介したのは『労働青年』久板卯之助であった。

俺が久板君と知り合ったのは大正五年(一九一六)、神田猿楽町で簡易食堂「へちま」開店後間もなく夏場だから氷水屋をやっていたところへ、久板は宮崎安兵衛から聞いたと言って来た。それから本郷白山上の南天堂書舗の三角間の二階に仮住まいしていた渡辺政太郎、本郷菊富士ホテルに大杉栄・伊藤野枝、日比谷の売文社で堺枯川・山川均・高畠素之、更らに荒畑寒村、木下尚江、神近市子、宮島資夫等に次々と同導紹介して呉れた。
望月桂遺稿集(久板卯之助君の奇行)より

望月は久板を通して、社会主義、無政府主義を学び、後にアナキスト画家としても紹介される同志社神学校中退の久板は、望月から美術について多くを学んだ。「へちま」から生まれた『労働青年』『平民美術協会』であったが、1917年7月「へちま」閉店後、『労働青年』は1917年11月の第七号をもって終刊、望月は日本紙器株式会社に就職し『平民美術協会』の活動も停滞する。

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平民美術

平民美術  望月 桂

吾々人類は何辺に迄で向上せんとするか。最善最美なる幸福に迄でと答えん。然り、今日の文明を以て満足は出来ぬ。曰く矛盾多き社会、徹底せざる自己。此暗黒なる怪雲を一掃せざる間は到底、光風霽月の理想郷は求め得られぬのである。然らば先ず第一にその魔物に湧く根源を突き壊さねばならぬ。即ち根源とは、人間が真の権威を失して、外部的勢力に圧迫され、主従転倒せる処に在るので、今日の文明の最初の第一歩に遠く根ざせるものである。是れ人生の真の幸福を忘れ
■中心点をはずしたる枝葉の幸福に憧れたるの結果と云わなければならぬ。
斯くて遂に専門及び、分業起こりて人間は段々不具な者になってしまった。益々霊に肉に各人の力の間隔が甚だしくなるのみで、吾人の望む、衆と共に等しき理解のもとに楽しみ倶に強く健全に生き、而して大いに発達を遂げ様とするの日は遠ざかり行く。見よ文芸に筆をとる者は只その事より他の事は知らずに得意になって民衆の先頭に立ち、いい気になって居る。又労働者は只々手足を動かして居れば人間は生きて居られるものだ位に考えている。此不具者達は益々偏長を偉大なりと迷信して誤れる方向に走って競争が始まる実に危険‼目も当てられぬのだ。彼らの情けは
■真の人間生活には価値無きもの、有難迷惑なもの、骨折損のくたびれ儲けである。
又相互扶助は徒らに他人に依頼するという事に化して、お互いに寄生虫の感がある。折角調和と統一とによって完全に近からんとして、進化した人類は此処に再び分裂せんとするか。或いは聞く手段とか、方便とか、それも佳ならん、されど純なるものは純なるものによって成らざるべからず。不具者に依って純なる幸福を得
■健全なる社会が造られようとは信ぜらぬ、吾々真面目なる生活を望み
真の幸を欲するものは、他人を恨むまい、世を呪うまい、先ず自らが健全なる生活に這入り、他人に弘め、社会を造るに茬りと思う。されば衣食住の物質的に生きる道は手足を動かし、趣味及知識の霊妙に生きるには頭を働かすべしと断案を下すに躊躇せず。斯く言えば懐手して飯を食わんとする富者顎で指図して歌や絵を集めんとする貴族、他人の権威の為に筆を振るい、飯を得る為に節操を売る、卑弱なる芸術家、物質の奴隷となって鉄槌を振るい、車輪を廻して文字美術を解せぬ労働者、夫れぞれ分業及び専門を以て自ら任ずる者如何に為すべきかは、各人思いなかばに過ぎんと信ずる。爰に於いて文学、美術は文士、美術家にのみ委ねるべきものでなく健全なる生活には各人の必要なる芸術であるというも亦過言であるまい。所謂芸術家がその実生活より離れて変則に発育せる頭で想像を廻らし唯だ
■機械的に発達せる技巧を弄して如何に努力せばとて其は皮膚的のものに終わる
崇高壮大なる芸術はその実生活よりほとばしり出る、止むに止まれぬ力であると云わんも亦失言ではないかろう。茲に貴族的沈溺美術を瓦解せしめ尚お真人の平民的美術の必要を感ず。是れが宣言の所以で同時に普及を同志に謀るものである。最後にあらためて労働者諸君の為に一言を繰り返そう、『自覚とともに美術の研究は文学に劣らざらんことを』而して労働青年諸君の内から力強き点の芸術が生まれて新社会の生命とならんことを望む。(一九一七、二、)

『労働青年』 一九一七年 三月号

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民衆芸術運動(5)

神田で4ヶ月、谷中で10ヶ月ほど営業した簡易食堂「へちま」だったが、妻が過労で倒れることにより、望月は閉店の意を決める。一年あまりの営業であったが、安い飯、集える場所、そして印刷の技術を持つ芸術家の店主、「へちま」は当時の労働運動、社会主義運動にとって、格好の拠点となった。
1916年10月、へちまの常連で、キリスト・社会主義者の久板卯之助が一般の労働者に向けた機関紙「労働青年」を刊行する。発行所や印刷所がへちまや望月の家になることもあった。望月はこの冊子の中で、民衆美術論とその運動を展開して行く。1917年2月に執筆し、1917年3月の「労働青年」で発表した「平民芸術論」、その主張に基づき、すでに2月には「平民美術研究会」を、翌月には芸術運動の実践を行うべく「平民美術協会」を立ち上げ、「労働青年」にも告知広告を掲載する。

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「平民美術協会設立」

世に平民美術の神聖を自覚し必要を感ずる以上、一種の専門家たる美術屋の手の独占せしめし現今の美術を、一般民衆の手に帰して其光輝ある真正の実を挙ぐ可き要求が生じてくる。茲に同志相謀って平民美術協会を創立せし所以にして、その宣伝普及の為具体的実現に着手せるもの也、切に同志諸君の御協力あらん事を希う。
不取敢目下の事業の次第左のごとし。

美術研究所開設
研究員は職業年齢男女を不問、時日は毎週日曜日開催の事。会費は一回金十銭也
平民美術講演会
適当なる時季を選びて開催する。
平民美術展覧会
毎年十月、於東京開催
純美術品の分布
木炭画、油絵、彫刻其他希望に随い便宜を計る。売額金一円以上
応用美術の作成
意匠、図案、印刷、楽焼、美術人形

其他平民美術に関する問題は一切御相談に応ずべく候
東京市下谷区谷中坂町二一 平民美術協会 幹事 望月桂