民衆芸術運動(4)

望月桂は東京美術学校卒業後に郷里長野県の野沢中学校に請われ、1910年5月に美術教師として赴任する。教師の仕事は一年間のみと決めていた。
赴任直後に大逆(幸徳)事件が起こる。望月の故郷である長野県明科の明科製材所で宮下太吉が爆裂弾を製造していたことが発覚し、幸徳秋水ら12名の社会主義・無政府主義者が死刑判決を受ける。爆裂弾を発見した駐在巡査は望月の父親とも親しかった。数年後の社会主義者、無政府主義者との交流に、この事件が、どの程度影響していたのだろうか。
野沢中学を辞職した望月は、明科の実家に戻り浪人生活を送るが、一年を待たずして東京に向かう。絵を売りものにせず美術を活かせる職業を探していた望月は、印刷工として、印刷会社に丁稚入りする。印刷の技術を習得した望月は、翌年に石版画工として独立、その年のうちに「大円社印刷所」を設立し婚約者のふくと結婚するが、翌年には会社が倒産する。その頃、世話になっていた「たぬき」という一膳飯屋の影響で、神田に氷水屋「へちま」を開業する。その後、簡易食堂として谷中に移転。印刷業も再開する。

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腹がへつては どうにもならん
先づ食ひ給へ 飲みたまへ
腹がほんとに 出来たなら
そこでしつかり やりたまへ

民衆芸術運動(3)

大正5年、早稲田文学に本間久雄の「民衆芸術の意義及び価値」が発表される。ロマン・ロラン『民衆芸術論』、エレン・ケイ『更新的教養論』を参照しながら、民衆芸術を定義しようとした。民衆芸術とは「惨めさと醜さがあるばかりの民衆」を教化するものであり、高等文芸に対して、通俗文芸であると定義づけた。この民衆芸術の定義に関して、様々な反論が起こされる。中でも大杉栄は、『民衆芸術論』、『更新的教養論』を精読し、大正6年10月の早稲田文学に「新しき世界の為の新しき芸術」を発表して、本間の誤読を指摘するとともに、民衆芸術の再定義を行っている。大杉栄によると「民衆芸術の問題は民衆にとっても亦芸術にとっても、実に死ぬか生きるかの問題」であり、その条件は、①娯楽であること。②元気の源であること。③理知の為の光明であること。「歓喜と元気と理知と、これが民衆芸術の主なる条件である。其他の諸条件は自然と備わって来る。そしてお説法やお談義は、折角芸術を好きなものまで嫌いにさせてしまう。手段としても極めて拙劣非芸術のものである。」

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大杉栄は続ける「しかし、此の主として「民衆の為めの」芸術が民衆に享楽されるようになるには、又彼の本当に「民衆の」芸術が生れるようになるには、先ず其の「民衆」が必要である。」と。同じ問題意識をジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリが『千のプラトー』で述べている。

芸術家はこれほどまでに民衆を必要としたことはかつて一度もなかったのに、民衆が欠けているということをこの上なくはっきりと認識する。つまり民衆とはいちばん欠けているものなのである。通俗的な芸術家や民衆主義の芸術家が問題なのではない。<書物>は民衆を必要とすると断言するのはマラルメであり、文学は民衆にかかわることだというのはカフカである。そして民衆こそ最重要事項だ。しかし民衆は欠けていると述べるのはクレーなのである。

民衆芸術運動(2)

黒耀会の中心人物である望月桂は、1887年1月(1886年12月)長野県の明科町に生まれる。実家は旧庄屋で養蚕業を営む、当時としては裕福な家庭に育った。松本中学の卒業を目前にして、息子が医者になることを望む親に反対されていた美術を目指し、家出をして東京へ向かい、1906年(明治39年)東京美術学校洋画科に入学する。(この年に山本鼎が同校を卒業している。)
望月は美術を目指したものの、絵を売って生活しようとは考えなかった。その頃を回想した「独断独語」と題する文章が残されている。

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 私が美校へ入ったのは、一ぱしの画家になろうなどではなく、絵が好きだったので研究しようとしただけだ。在学中いろいろな問題にぶっ突かった。美とは何か、真実とは何か、生き甲斐とは、また美術の神聖さ、芸術と生活の一体化等に悩みは多かった。肉眼に訴える感覚表現と技術は一応取得した。
そして考えさせられた。表面美、内面美というか、肉眼に映り、心眼に触れると申すか、内部に潜むものを快。小細工などなしに純情感激そのままを叩きつける壮。それから止むに止まれぬものを現わせば、不必要なもので飾る要はない。
勿論芸術である以上、表現技法は大切だ。それに新旧はいらざる事、最適なものが佳、洋画、日本画にも固執する要はあるまい。流行は必ず廃る。流れに浮かぶ泡ぶくの如しだ。ただエゴ陶酔は気をつけるべきだ。常に衆と共に生きる世の中だから。
だが世の中へ出てみると、夢と現実は裏腹だった。近代文化は物質万能、肝心の精神生活は無視に等しく、万事は経済に支配され、人間はその奴隷たるため、道具たるための専門家たるを得なかったのであった。そうして各自自ずから争って自分を売り食いして居る。そして社会は、自己以外を理解できない不具者の寄せ集めであった。
美しい芸術即生活を目標とし、自然を愛し自由を尊重した、一青年は人生に失望したが、ここに一切の幸せは他に頼れない、自力創造以外にないと奮起した。人間個々は性格才能に相違は当然、各自は分に応じ、それぞれの筋を通し、万人理想の為めに行動を取るべきだ。芸術は万人享楽のために解放すべきものだ。
私は芸術の神聖を命を賭しても守る。生活のためにそれを売る事は芸術を冒涜すべきものだとし、制作以外の職を選び生活することにし、或いはテクニックだけを売る事にしたのだ。
そして政治と美術の関りについて一言。私の知る範囲では、凡そ政治は権力の下に、愚民をいい事にし、お為ごかしの巧妙な誤魔化し支配以外の何物でもない。更らに経済とつるんで人類を腐廃せしめ芸術をも歪曲退廃せしめる。これに対し芸術家たるもの何でそっぽを向いて居られよう。
硬骨露わに体当たりか、骨に肉と皮とで被いやんわり逆撫でして自覚を促すか、その手は幾らでもある、芸術は常に正義の味方であるべきだ。
そこで漫画が登場する。敵の攻撃から味方に勇気づけ、失った笑いを復活せしめる役割がある。これも説明ではなく、又下衆では拙い。美術の品位を保たねばならぬ。

民衆芸術運動(1)

ポップソングを「楽曲」といい、その歌い手を「アーティスト」と呼ぶまでに、芸術の大衆化は進んできた。大衆文化として栄えた漫画は、いまや日本文化の中心にある。しかし、わたしたちは本当に芸術を手にしたのだろうか。大正期に美術を中心に民衆芸術運動の実践を行った《農民美術練習所~日本農民美術研究所》の山本鼎、《平民美術協会~黒耀会》の望月桂、そして《羅須地人協会ー農民芸術概論綱要》の宮沢賢治について考察しながら、芸術の民衆化というものについて考えてみたいと思う。

黒耀会(望月桂)

大正8年の暮れに、黒耀会という民衆芸術のグループが立ち上がった。
立ち上げにあたり、宣言と会則を記した手書きのガリ版が印刷されている。

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民衆美術宣言

宣言
現代の社会に存在する藝術は、或る特殊の人々の専有物であり、又玩弄物の様な形式に依って一般に認められている。こんな芸術は何処にその存在を許しておく価値があろう。この様なものは遠慮なく打破して吾々自主的のものを獲えねばならぬ。これが此の会の生まれた動機である。
大正八年 十二月 五日
黒耀会
会則
一、本会は黒耀会と称す。
一、本会は自主的藝術革命を目的とする人々に依って組織す。
一、本会は研究会及実際運動をなす。(月一回研究会を開く 第一日曜午後六時より)
一、本会には一切の会務を処理するために会員互選の世話人を置く。
一、会費は1ヶ月金弐拾銭とす。
一、本会の事務所を当分の中左記の場所に置く。
一、東京本郷区千駄木町二一〇 望月桂 方