一時期大騒ぎとなったエートス・プロジェクト。最近はエートスという単語さえ目にしなくなってしまったが、すでに「社会的心理」となってしまっているのだろうか。
マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、資本主義の精神として語ったエートス。訳者解説の中で大塚久雄氏は、このエートスについて以下のように述べている。
「エートス」は単なる規範としての倫理ではない。宗教的倫理であれ、あるいは単なる世俗的な伝統主義の倫理であれ、そうした倫理的綱領とか倫理的徳目とかいう倫理規定ではなくて、そういうものが歴史の流れのなかでいつしか人間の血となり肉となってしまった、いわば社会の倫理的雰囲気とでもいうべきものなのです。そうした場合、その担い手である個々人は、なにかのことがらに出会うと条件反射的にすぐにその命じる方向に向かって行動する。つまり、そのようになってしまったいわば社会的心理でもあるのです。主観的な倫理とはもちろん無関係ではないけれども、もう客観的な社会心理となってしまっている。そういうものが「エートス」だ、と考えて良いのではないかと思います。
「禁欲的信仰」と「資本的営利主義」これら相反するものを結びつけるのが「エートス=資本主義の精神=社会の倫理的雰囲気」ならば、フクシマに置き換えれば、「放射能汚染された土地」と「健康な生活」というものを結びつける「社会の倫理的雰囲気」を作り出すことを目的としたものが「エートス・プロジェクト」であって、それは「資本主義の精神」にも直結していることになる。また、安保法案は「平和」と「戦争」を結びつけるエートスだとも言えるだろう。政府は妄言を吐いてエートスを作り出そうとする。被曝し戦火にさらされる、健康で平和な「いつもの場所=エートス」を。
禁欲的に金儲けをする、健康的に被曝する、平和な戦争をするといった矛盾に対して無批判でいること。倫理ではなく倫理的雰囲気に従うこと。それがエートスがもたらすものなのかもしれない。わたしたちはこれら「社会の倫理的雰囲気」によって、条件反射的に動かされないように、十分に気をつけなければならないだろう。