絵画への我が一考
望月桂
無才、無能、無力の我が生涯を顧みて、「新しい事、珍しい事、良い事、為になる事」など考えた事もない無精者だが、ただ真美の追求を続けて八十余年を過ごしてしまった。その間反省と信念の繰返しで生きたまでであった。その一面に趣味として絵を描く事を嗜んだが、今それを思い起こして感慨深いものがある。
よく「私は絵はだめだ」と天から相手にしない人が多いが、それは、描こうとする試みと勇気が足りないので駄目なのだ。上手下手は別として描かないから描けないのだ。人、器用必ずしも良い絵が出来る訳ではない。世に言う吃の雄弁という事がある。人は誰れでも自分が一番大事であってみれば、自分でした事は、他人にして貰うより大切な筈だ。他人の手で掻ゆい処を掻いて貰っても思うように手が届かぬと同様だ。自分の自由の大切さを知ってこそ、他人の自由さも察しられる。近頃個性尊重、人間尊重の言を度々耳にするが、それはエゴではなく、先ず自分の自由の大事さを知ってこそ、初めて他人の自由の尊さも判るということだ。そして知るだけでなく、行って初めて知る意義をなすと、自らを励まして来た。
お釈迦様の唯我独尊を俗人は自分に都合よく狭義に解するが、それは人共に唯我独尊の意で、自ずから調和融和の美の世界を指すと、判る様な気がする。そこで醜悪に挑戦することは美挙だと思う。潤おいある人間純化、並びに社会浄化には欠かせない、詩情ある芸術を欲する。物質先行文化の社会に於いては特に精神的遅れが目立つ。されば趣味芸術に依る、人的運動の必要を痛感させられる。
それもまた例えば児童が勉強を嫌うと言うが、敢えて教えようと強いるからで、教えようとする前に、その事への面白みを持たせる事だ。人は個性才能に相違ありと言う。だがそれも先天性にのみ任せず、努力開拓が可能だ。絵はあらゆる事の基礎だ。全ての人に絵心を持って貰う運動は革新への一歩だと信ずる。自然と自由を愛する人の集まりに依って初めて平和な社会は出現すると信じる。