むかし、加藤一夫という詩人、評論家がいた。明治20(1887)年に和歌山で生まれた彼は、田辺中学時代に新しく赴任してきた校長の排斥ストライキ運動を起こす。退学、和歌山中学への復学を経て、和歌山のキリスト教会に出入りし、洗礼を受ける。1908年、明治学院神学部予科に入学、卒業後宣教師となるがキリスト教への疑念が解けず教会での仕事をやめる。1914年鎌倉高等女子学校の教師となるが、社会主義的な指導をしているとされ、わずか4ヶ月で辞職に追い込まれた。その後、トルストイの『闇に輝く光』の翻訳を皮切りに、文筆家としての道を歩み始める。存在理由を自らの生命に拠り、自己の真実を生きようと、本然生活を目指す。1915年には月刊文芸誌『科学と文芸』を刊行し、文芸人として認知されていく。ロマン・ロランの翻訳もしていた加藤は民衆芸術の議論が盛り上がると、理論的主導者の一人として、社会運動にも関わっていくことになる。「自由人連盟」「社会主義同盟」の発起人となり、大杉栄らアナキストグループとも交流を持ち始め、『民衆芸術論』『農民芸術論』などアナキズム的な文化論を発表していく。関東大震災後の戒厳令下に巣鴨署に検束されるが、東京を離れることを条件に釈放され、富田砕花を頼り兵庫での生活を始める。尾行に監視される中、翻訳の仕事で生活費を稼ぎながら、個人誌『原始』を刊行する。大杉栄虐殺、復讐の失敗、アナ・ボル対立の激化。1925年に東京に戻った加藤はアナキストたちに歓迎される。死刑判決を受けた古田大二郎にも2度面会し、通夜にも出席している。個人誌『原始』は寄稿も受けるようになり、アナキズム系機関誌として「無産階級文芸誌」となった。衰退するアナキズムとソ連の独裁化に追従する社会主義の中に自らの真実を見失っていく加藤は一田舎であった神奈川の中山への転居をきっかけに農本主義に傾倒していく。新居は雑誌「民衆芸術」を刊行していた大石七分がデザインした豪邸とも呼べる西洋館だった。理想主義的なコミュニティを作ろうとする中で、加藤は一度は見失った宗教人としての自覚を取り戻していく。創立に関わった春秋社の成長に支えられた中山での田園生活だったが、春秋社の凋落により、金銭的な支えを失い、7年後にはすべてを失う。崇神天皇の「農は天下の大木なり」にも通じる「農本」主義は国家主義や天皇崇拝との親和性を持ち、加藤の農本主義への傾倒と宗教人としての自覚は、ついには天皇信仰に転向する。太平洋戦争後は『新農本主義』を掲げるも、次第に表舞台から消えていく。戦後の加藤の思想については未見なので、ここでは触れない。終戦時、長男哲太郎は新潟第五俘虜収容所の所長であり、戦犯にされることが確実であったため、地下生活を送るが、1948年に捕らえられ、米軍事裁判で絞首刑の宣告を受ける。加藤の奔走により再審され、最終的には禁錮30年に減刑された。哲太郎が服役中の1951年に加藤一夫は永眠する。哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」をもとに制作された、フランキー堺主演のテレビドラマ『私は貝になりたい』は大きな反響を呼んだ。
加藤一夫の転向や石川三四郎の「土民生活」との違いを考えることは、民衆芸術の復興を考えることに他ならないだろう。少しずつではあるが、このブログで、加藤一夫が書いた芸術論を紹介していこうと思っている。まずはその元になったであろう加藤一夫訳の『クロポトキン芸術論』から始めたいと思っている。