民衆芸術論一節
大杉栄 訳
この頃 ⋯⋯⋯ 一九〇三 ⋯⋯⋯ パリに平民劇場を建てようという企てがある。すでにいろいろな特殊の利害や政治上の利害から、それを自分のものにしようとしているものがある。平民の出費の元に生きようとする寄生木どもは、容赦なく平民の親樹から截り取らなければならない。平民劇は流行の商品ではない。ディレッタント等の遊びではない。新しき社会のやむにやまれぬ表現である。その言葉である。その思想である。そしてまた、危険の際の自然の勢いとして、凋落しかかっている老衰した旧社会に対する、戦いの機関である。少しでも曖昧であってはならない。ただ題目のみが新しい、新しい旧劇、すなわち平民劇の名のもとに変化を求めんとする紳士劇を演ずることではない。平民から出た平民のための劇を起こすのだ。新しき世界のための新しき芸術を建設するのだ。
現に、平民劇の代表者と言われる人々の間に、まったく相反する二派がある、その一派は、今日あるがままの劇を、何劇でも構わず、平民に与えようとする。他の一派は、この新勢力たる平民から、芸術の新しい一様式すなわち新劇を造り出させようとする。一は劇を信じ、他は平民に望みを抱く。その間には何等の共通点もない。過去のための闘士と、将来のための闘士である。
国家がこのいずれの派に属するかは言うまでもない。国家はその性質の上から常にかこの味方である。国家は、その代表する生活様式に少しでも新しいものがあれば、それを妨止しまたそれを凝結させる。誰も自分の生活を固定させるものはない。しかるに国家の任務は、その触れるいっさいのものを化石させ、生きた理想を官僚的理想としてしまうことにある。現に、私がこの文章を書いて以来、時間はわれわれのこの不信任を証拠立てている。平民劇の企てについての国家の干渉は、その必然の結果として、いつもこの企てを変性させて圧しつぶしてしまっている。
一般には今日の文明を、そして特殊には今日の劇を善良なるのと信じている。私はそうは思わない。私はこの妄想を容赦なく攻撃するだろう。今日の選ばれた人々の大多数はこの妄想を抱いている。そしてこのことは、いわゆる選ばれた人々があまり頼むに足らないという、われわれが久しい以前から知っていることの証拠になるのだ。彼等はただ変化を与えようとして無駄骨を折る。もともと彼等は保守主義なのだ。過去の人間なのだ。彼等には新しい社会をも芸術をも創ることはできない。やがて彼等は消滅するのだ。
生は死と結びつくことはできない。しかるに過去の芸術は四分の三以上死んだものである。これはフランスの芸術にのみ特殊の事実ではない。一般の事実である。過去の芸術は生には何の役にも立たない。かえって往々生を害う恐れすらある。健全な生の必須条件は、生の新しくなるに従って、絶えず新しくなる芸術のできることである。(ロマン・ロラン)
『黒耀』表紙に掲載された、大杉栄訳 ロマン・ロラン「民衆芸術論」一節