貨幣芸術

芸術を目指した頃から、自分の作品をお金に換えることに違和感を持っていた。

作品は誰かの為に作るわけではない。

それはわたしの世界への問いかけなのだから。

誰かの為に作品を作ったとしたなら、それはそれで贈ればいい。

しかし、生活と芸術を分ける暮らしの中で、あまりにも労働に時間をとられてしまっていた。

とにかく一度労働をやめてしまおうと思った。

神戸淡路大震災、オウムサリン事件の2年後の1997年のことだ。

床ずれが出来るほどベッドの中で宮沢賢治「農民芸術概論」とゴッホの手紙を繰り返し読んだ。

一切の知識のない中、ホームページや自宅サーバーを立ち上げようと、何日も徹夜した。

時間のかかる点描の油彩画を描いた。

細い筆で何度も繰り返し色をカンバスに置くこと、それはひとつの祈りのようだった。

バブル後の不景気の中で、資本主義の限界を感じたわたしたちは、マイナス成長の経済を考えはじめていた。

資本による経済と、生活の経済とを切り分けることだ。

地域通貨がブームとなった。

しかし、地域通貨が主な交換手段になるほどのコミュニティはほとんど生まれなかった。

すでに世界は地域ではなくなっていたのだ。

貨幣とはなにかということを考え始める。

フリーソフトウェア―の「フリー」に経済や芸術の可能性を見た。

そしてD.I.Y.。偽札ではなく、本物の通貨を自ら創造すること。

絵を描くことで発行できる地域通貨の実験もした。

その中で、貨幣の持つアウラを一度消すことが必要と考えた。

複製技術時代の不換紙幣の持つアウラとは何か。

千円札にクリエイティブコモンズライセンスを付加してみた。

金兌換を不要とすることによって、人の命が通貨の裏付けとなった。

生政治の始まりなのだろう。

貨幣にまつわる作品による個展を開こうと考え、作品のエスキスを作っていた頃、Bitcoinという新しい通貨が生まれていた。

Bitcoinにまつわる作品が無ければ、個展として成立しない。

しかし、所在不明の日本名を名乗る人物が考案し、オープンソースソフトウェアで作られ、P2Pで取引できる暗号通貨であること程度しか分からない。

作品を作るためにBitcoinを持ってみたいと考えたのが2014年はじめ、1BTCが2万円程度だった頃だ。

相変わらず生活に余裕は無いし、お金と交換するのは違う気がした。

とりあえずビットコインウォレットを作ってみたものの、何も分からない。

数日の間に1BTCが3~4万円になっていたので、儲けることが好きそうな知り合いのアメリカ人に勧めてみた。

最近白状したのだが、その時に1BTC買っていたらしい。

そして、Bitcoinを少しだけ分けてくれた。

先週、その時の1BTCは100万円程度で、現在、1,234,567.90円だそうだ。

もう少しで一気通貫ではないか。

今年になってBitcoinの価値が急激に上がりはじめた。

2010年にはじめてBitcoinで決済が行われたのは、25ドルのピザ二枚を10,000BTCで購入できた時だ。

今、Bitcoinを生活の中の交換価値として使うことは難しいと思う。

Bitcoinは投機対象となったのだ。

Bitcoinを一度移動させたくて、別のウォレットに送ってみた。

千円送って、500円届いた。

その500円は今767.14円になっている。

Bitcoinの作品を作ることが出来たら、その時は個展を開くつもりだ。

著作権と自由の侵害

芸術はその発生から、現在に至るまで変わること無く、「自由の技術」でありつづけていますが、常に「反芸術」という状態も起こりますし、最近、特に状況は悪化しています。「反芸術」勢力が世の中に溢れてきているのです。

芸術が反芸術に堕落するその一番の原因は「(自然権として売り買いされる!)著作権」です。ワールドワイドウェブという自由の道具が現れ、その反動として、アートを囲い込み、利用して金儲けをする企業/団体による著作権の強化が行われています。これまで、芸術の創造者は「著作権」について、それがあまりに不当な金儲けに使われない限り、それほど気にしていませんでした。なぜなら、いくらでも新たに作品を制作することが出来るし、ひとつの作品を作り終えた後には、次の創造に向かうからです。作品に秘められた創造力が世界に広まったり、誰かの創造力を刺激するきっかけになれば、それで良いわけです。作品やその複製がたくさん売れて、必要以上の金儲けをすることなど、芸術にとってはどうでもいいような些細なことなのです。

「著作権」を非親告罪化しようとする反社会勢力/反芸術勢力が存在し、勢力を拡大しています。この自由の侵害に対して、「自由の技術」に関わる芸術家が立ち上がらなくてはいけません。それが出来なければ、自由と芸術は死に絶えてしまうでしょう。

自由を創造する技術

芸術とは一種の自由の科学である ─ヨーゼフ・ボイス

ヨーゼフ・ボイスが「芸術は自由の科学」と言っていますが、今ひとつ納得できない。マルクスの「貨幣は商品である」と同じぐらい違和感があります。

芸術と自由は決して切り離せない。切り離したとたんに双方が消滅してしまうものであることは周知の事実なのですが、、、。

では、「芸術は自由の」何なのか?「芸術」は「art」の翻訳と聞いています。アートの根源は「テクネ」やはり技術であって、芸術は『自由の技術』なのです。

自由の中には、元々はベストな状態へと向かう言葉であったはずの「良い加減」や「適当」という、今ではネガティブな感じを受けるものが含まれています。「欲望のまま」「我儘」という意味も含まれるでしょう。それらも否定することの出来ない人間の本性です。

全て受け入れ、自由の創造(解放)を行う技術が「芸術」というものなのです。

新自由主義という現在の困った状況も、ある意味アートによって生まれてきたものです。しかし、そうであればあるほど、それを淘汰し新たなパラダイムを創造することも、アートによって行う他ないはずです。

芸術は終わっていないし、決して終わらせてはなりません。

クリエイティブ・コモンズ ライセンス 表示-非営利-継承 3.0の下に置かれた15枚の日本銀行券

現代美術家の彦坂尚嘉さんが主催する「フリーアート」第1回展に出品しました。

クリエイティブ・コモンズ ライセンス 表示-非営利-継承 3.0の下に置かれた15枚の日本銀行券
2010年 カンバス、日本銀行千円券、ゴム判、鉛筆、両面テープ

「社会体に組み込まれているとはいえ芸術は、自らを支えるものとしては自分しかもっていません。」─フェリックス・ガタリ

貨幣に価格というものはありません。貨幣は商品ではなく、そのデザインがパブリックドメインに置かれていることからも分かるように、本質はフリーなものなのです。特にニクソンショックによるドルの兌換停止以降、それは決定的なものになりました。芸術作品もまた商品ではありません。芸術作品は自己言及の循環によって成立するものだからです。そして商品ではない貨幣が為替/金融商品として売り買いされることの根拠を芸術作品、特に美術作品が与えている疑いがあります。芸術作品と同じように自己言及性を持つ貨幣ですが、そのままでは決して芸術作品になることはありません。この作品は貨幣に署名し、さらにクリエイティブ・コモンズ ライセンスを付加することで貨幣を芸術に変容させています。貨幣の本質である<フリー>を剥き出しにすることによって、芸術と貨幣の隠された共謀を暴いているのです。

無料主義経済の黎明

芸術には絶対的なものが必要だ。
絶対は相対的なもののなかで現前する。
相対無くして絶対を知ることは出来ないのだ。

無料と1円の間には無限の隔たりがある。
しかし貨幣の中でしか無料を知る事は無い。
無料は絶対である。

作品が無料となる事によって、
否応無くそれは芸術となる。
無料である事と芸術であることは同じだ。

有料の作品は全てエンターテインメントだ。
それは芸術ではなく余興である。
無料は芸術の本質なのだ。

芸術そのものが「生きた貨幣」となり、
あらゆるものが自由に流通し始める。
無料主義経済の黎明がそこにある。