赤と黒と死

記録的な暖冬の晴天の中、久し振りに町田市立国際版画美術館に行く。「新収蔵作品展 Present for you」の戦後版画運動関連作品を見たいと思ったからだ。他に「第33回 町田市公立小中学校作品展」「ルオーとシャガール―めくるめく挿絵本の旅へ―」三つの展示が行われていた。現在、全館無料で鑑賞できる。貴重な戦後版画運動の作品が集まり始めたのは素晴らしい。あの『花岡ものがたり』でさえ1952年の初出版後に忘れ去られ、中国から逆輸入のかたちで発見されて1981年に再出版されているのだ。町田市立国際版画美術館にはさらなる収蔵を期待している。

「新収蔵作品展」も「ルオーとシャガール」も見ごたえがあった。シャガールが描くものはいつも空を飛んでいるし、ルオーの色彩銅版画はすごい技術で制作され、奈良美智の木版画は職人による繊細な彫と摺りが興味深かった。(木版画だけ撮影可)奈良美智のリトグラフで『Fuckin’ Politics!』というのがあった。作品自体については語る言葉を持たないが、タイトルには共鳴した。芸術は Fuckin’ Politics! であるほうがいい。

せっかくなので、小中学校作品展の会場にも足をのばす。そこには何百点もの(多分選ばれていない)習字が展示されていて圧倒される。今回の三つの企画展の中で一番良かったかもしれない。学校別に展示され、同じ字のものや生徒が選んだ習字が並んでいる。ひとつひとつは小学生の時に書いたり見たりした覚えのある習字だが、それらが集合することによって、自己組織化ダイナミクスが起こっているのかもしれないと思う。

帰り道にある「町田市民文学館」にも寄った。小さな文学館だが、いつも気合の入った展示をおこなっている。現在の展示は「三島由紀夫展-「肉体」という second language」没後50年だそうだ。ちょうど学芸員が解説を行っていて、3~40人はいただろうか。みんな真剣に聞き入っていた。まだまだ人気があるのかもしれないと思う。先日「赤と黒の連続講座」の二回目で廣瀬純氏が「運動の原理としての死者」について語っていた。すぐに安保闘争の樺美智子や山谷の山岡強一のことが頭に浮かぶが、同時に三島由紀夫や靖国神社についてはどうなんだろうと思う。理屈でそれらを全く別のものとして分けることは出来ないだろう。「死」は理屈ではないからだ。そして、その思考はバタイユに向けるしかない。赤と黒と死の思考。

異邦人とボヘミアン

むかし、プログレッシブロックの歌詞の和訳を読んでは、その意味を探ろうとしていた頃があった。シンコーミュージックから出ていた『ピンクフロイド詩集』は宮沢賢治や中原中也の詩集と同じぐらい精読した。そして、いまやボブディランがノーベル文学賞をもらう時代だ。ハードロックの歌詞は特に気にしたことはなく、ボーカルは楽器の一つぐらいに考えていた。去年、映画が大ヒットしたクイーンだが、テレビから流れる『ボヘミアン・ラプソディー』を聞いていて、ふと気づく。今さらどうでもいいことだけど、カミュの影響があるのではないかと。『異邦人』のあの有名な書き出しは「きょう、ママンが死んだ。」だ。主人公ムルソーは隣人のトラブルに巻き込まれ、アラビア人を射殺してしまう。裁判で殺害の動機を聞かれ「自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、と言った。」『ボヘミアン・ラプソディー』でもピストルで人を殺したとママに告白している。そして、地球が動くのは「太陽のせい」だと言ったのはガリレオではなかったか。『ボヘミアン・ラプソディー』の歌詞の最後のニヒリズムはどうだろう「僕にはどうでもいいんだ、どうせ風は吹くのだから」。それに比べて『異邦人』の最後の一文は「この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」カミュは不条理の中でも決して絶望していない。「私が自由を学んだのはマルクスのなかではなかった。私は自由を、たしかに貧困の中で学んだ。」カミュ『時事論集1』

赤と黒の連続講座

渋谷駅はヒトでごった返していた。駅前のスクランブル交差点では角々にキリスト教の立て看板があり、恐ろしい調子で録音された、聖書の言葉が流されている。道端には右翼の街宣車が横付けされ、中国の悪口をがなり立てている。よく映画で表現される、海外の人たちが感じるであろうディストピア感を自分も強く感じた。

平井玄さんらの企画 【赤と黒の連続講座】Section1『赤と黒のあいだのanti資本主義』が行われる渋谷勤労福祉会館に行く。今日はこの連続講座の第一回目、酒井隆史さんの講座だ。気候変動と階級闘争の話など、もやもやの晴れるいい話だった。そして、ともかく鶴見俊輔的「反射神経」が必要だという。

帰り道、渋谷の駅前広場では(自称、草の根)右翼が国旗や日章旗を持って二列に並んでいた。その間を若者たちが行き来する。まるで出陣式ではないか。疑問を持つ人たちも見当たらない。いつのまにか渋谷では日常の風景になっているのかもしれない。デモでは赤や黒の旗を見かけなくなったが、日常に国旗が掲げられる時代なのだ。酒井さんの言葉が頭をよぎる。「日本の人(歩行者)たちはなぜ信号でさえ守ろうとするのか。」

次回は来年、1月25日(土)廣瀬純さんの講座を開くとのこと。

滝山コミューン一九七四

恐ろしい本を読んだ。原武史『滝山コミューン一九七四』。近所の古本屋で100円で売ってなければ読むことのない本だろう。帯には「僕は感動した。子供たちの裏切られた共和国だ‼︎」との高橋源一郎の推薦文。

1970年代、著者が東久留米の滝山団地で過ごした小学生活の思い出を描いているのだが、可哀想になるぐらいに暗い。そして40歳半ばにもなる明治学院大学の教授時代(2007年)にこの本を出版してしまうほどに傷ついてしまっている。

全生研がそのイデオロギーによって作成し、各地の学校で実践されたらしい「学級集団づくり」。

集団の名誉を傷つけ、利益をふみにじるものとして、ある対象に爆発的に集団が怒りを感ずるときがある。そういうとき、集団が自己の利益や名誉を守ろうとして対象に怒りをぶっつけ、相手の自己批判、自己変革を要求して対象に激しく迫ること――これをわたしたちは「追求」と呼んで、実践的には非常に重視しているのである。
『学級集団づくり入門』第二版

この手引書は1971年発行。連合赤軍が12人の仲間をリンチ殺人してしまった山岳ベース事件があったのも、1971年から1972年にかけてのことだ。時にエートス(ある社会集団・民族を支配する倫理的な心的態度)というものは暴走してしまう。パトスとの対立。

原武史は同世代だが、地方だからか、付属の小学校だったからか、自分はこういう教育を受けた覚えはない。どちらかというと放任主義的なところがあったように記憶している。

彼には早く立ち直って欲しい。

 

公園の中のチャイルドシート

電動アシスト自転車に設置されたチャイルドシートはSFに出てくる乗り物のように思える。1960年代の幼稚園の頃、遊ぶときに親が見守っていた覚えはほとんど無い。チンチン電車の線路には自由に入れたし(実家の近くでは今でもそうだ)、空き地も多く、野良犬もイタチも出没していたので、当時の方が安全だった事にもならないだろう。安全安心が確保されたわけではなく、私たちの恐れが増大しただけなのだ。

墓碑銘と貸本屋

井上陽水の名曲といえばやはり「小春おばさん」なのだが、ふといまさら気づいた。キング・クリムゾンの「エピタフ」とそっくりじゃないか。

そういえば、「エピタフ」はザ・ピーナッツもフォーリーブスも西条秀樹も歌っているのだし。

性別を越えた愛だけが、深い愛に近づくことが出来る

最近は子どもを産むことを、経済的な「生産」と捉える人が多いそうだ。「富国強兵」のプロパガンダがうまくいっているのだろう。

ファシズムも共産主義もキリスト教も拒絶して、人間は生産したり役に立ったりしなければならないという価値観に徹底的に抵抗したのがジョルジュ・バタイユだ。彼は非生産的で有用性のないもの、そして蕩尽に神聖なものを見た。

バタイユは「結婚は先ず第一に合法的な性欲の枠である」と考え、「結婚がどの範囲でも麻痺させることのないほど深い愛は、不倫の愛に染まらないで、近づくことができるものだろうか?不倫の愛だけが、愛には掟よりも強いものがあることを教える力をもっているのであるから。(エロティシズム P.118)」とした。

今を生きるわたしたちはこう言おう「性別を越えた(LGBT)愛だけが、愛には掟(生産性)よりも強いものがあることを教える力を持っている。」と。

バタイユの草稿をまとめた『呪われた部分 有用性の限界』の目次には刺激的なタイトルが並んでいる。

第1部 呪われた部分 有用性の限界
 第1章 銀河、太陽、人間
 第2章 非生産的な浪費
 第3章 私的な浪費の世界
 第4章 生の贈与
 第5章 冬と春
 第6章 戦争
 第7章 供犠

そのことを知っているかどうかは重要ではない

ジョルジュ・バタイユの経済論『呪われた部分』に入れなかった草稿をまとめた『呪われた部分 有用性の限界』をながら読みしている。その本のなかで「喫煙」について書かれたものがあった。「喫煙」について常々感じていたことが言語化されていたので紹介したい。最近はバタイユ的なことを口にすると怪訝な顔をされてしまう。道徳的な倫理観、エートスというものが世界を覆っているのだ。

 現代の社会で浪費がほとんどなくなっているというのは、それほど確実なことではない。その反論として、煙草という無駄な消費をあげることができるだろう。考えてみると、喫煙というのは奇妙なものだ。煙草はとても普及していて、わたしたちの生活のバランスをとるためには、煙草は重要な役割を果たしている。不況のときにも、煙草の供給は真面目に配慮されるくらいだ(少なくともそうみえる)。煙草は「有用な」浪費に近い特別な地位を占めているのである。
 しかしこれほど俗っぽい浪費はないし、これほど時間つぶしと結びついている浪費もない。ごく貧しい人も煙草をふかす。ただしいまこの瞬間にも、煙草の値段はかなり高い。どれだけの人々が配給された煙草を、不足しがちな食品と交換しているだろう。そして食材がないために、貧しい人々はますますみすぼらしくなるのだ。あらゆる贅沢な浪費のうちで、煙草の浪費だけは、ほとんどすべての人の財布にかかわる事柄だ。ある意味では公共の喫煙室は、祝祭に劣らず共同的なものなのだ。
 ただ、ある違いがある。祝祭はすべての人が同じように参加する。ところが煙草は富む者と貧しい者の間でうまく配分されていない。多くの喫煙者は貧窮していて、特権のある人々だけが際限なく喫煙できるのだ。他方で、祝祭は特定の時間だけに制限されるが、煙草は朝から晩まで、いつでもふかすことができる。そうした散漫さのために、喫煙はだれにでもできるものとなり、そこに意味が生まれないのだ。喫煙する多くの人が、そのことをいかに認識していないかは、驚くほどだ。これほど把握しにくい営みはない。
 喫煙という祝祭は、人々に祝祭が行われているという意識を持続させる。しかしこの用途には、隠された魔術が存在する。喫煙する者は、周囲の事物と一体になる。空、雲、光などの事物と一体になるのだ。喫煙者がそのことを知っているかどうかは重要ではない。煙草をふかすことで、人は一瞬だけ、行動する必要性から開放される。喫煙することで人は仕事をしながらでも〈生きる〉ことを味わうのである。口からゆるやかに漏れる煙は、人々の生活に、雲と同じような自由と怠惰をあたえるのだ。

あなた達自身が国家です、 皆が! だれもが!

「今回の選挙、くだらなすぎる」 と東浩紀が投票棄権の賛同署名を集めたそうだ。そんな署名はくだらなさすぎるといいたいところだが、心配で心配でしょうがないのだろう。

1970年のドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙で『フルクサス・ゾーン・ヴェスト』のヨーゼフ・ボイス、ヨーナス・ハフナー、ヨハネス・シュトゥットゲンは連名で棄権を呼びかけている。


もう政党には投票しないで下さい。なぜなら、政党は経済的強者の味方であり、大衆の生産力を収奪する者の味方だからです。

あなた達自身が国家です、 皆が! だれもが!

あなたたちの所有している権力を、自己決定する権利に基づいて行使しなさい。

あなた達自身を統治しなさい

非暴力

――ヨーゼフ・ボイス、ヨーナス・ハフナー、ヨハネス・シュトゥットゲン――


東浩紀は自分は選挙行くかもということだそうで、行動自体が他人事でいくらでも言い訳ができるが、『フルクサス・ゾーン・ヴェスト』の棄権の呼びかけは革命家のそれだ。

もう二度と政党には投票しないで下さい。皆が、だれもが、芸術を、つまりあなたたち自身を選ぶのです!皆が、だれもが投票棄権者として自分たちを組織し、真の野党になろう!皆が!だれもが!あなたたちが所有している権力を、自己決定する権利に基づいて行使しなさい。皆が!

世界戦争の記憶が途絶えつつある今、果たして《直接民主主義》は可能なのだろうか?

わたしはドン・キホーテ気どりである

「わたしはドン・キホーテ気どりである」と戦後の初代公選杉並区長「新居格」は云う。『杉並区長日記』には、「世界の杉並区―私の文化設計―」として、杉並区をワイマールのような文化都市にしたいと書いた。

荻窪駅の北側にある大通り、あのあたりがわが杉並区のセンターともなろう。よき図書館、上品なダンスホール、高級な上演目録をもつ劇場、音楽堂、文化会館、画廊などがあってほしい。

現在、荻窪駅北口の大通りの向かい側には、「驚安の殿堂 ドン・キホーテ」が目立っている。

格は色紙に書いている。

路と云ふ路は
羅馬に通ずれば
ドン・キホーテよ
でたらめに行け

荻窪駅北口を走る青梅街道は、今でもワイマールに通じているのだ。